第1,522回 痛みの記憶(5)
ハルカ引退試合サイドストーリー
痛みの記憶
「・・・うまく、やります、ハルカさん、今度は私がハルカさんを・・・・・・護ります」
その翌日、SPZ巡業部に、極秘のプロジェクトが設立された。復活のXデーは7月のドーム大会と決まった。ただ普通に考えたら闘える状態ではないので、ワンマッチ限定で復帰戦兼引退試合という扱いにすることになった。
4月下旬、ハルカはアポカリプス病院を無事退院したが、まだ予断を許さない状態なので、病院近くのベイエリアのホテル最上階スイートルームに移った。彼女の世話はブレード上原、そしてオフの日は小川あかりも顔を出した。
ハルカの体重は、3年前の全盛時から約30kg落ちていた。大型連休に入るころには、数百メートルの軽いジョグならできる程度にはなったが、持続的な運動ができる状態ではなかったし、筋力が壊滅しているのでマシントレーニングなどとんでもない状態だった。
(昔のSPZなら絶対無理だが・・・・今ならブックでなんとかなりそうだな)
ブレード上原はそう感じた。
来る日も来る日も、早朝の歩行運動とジョグを繰り返してハルカの身体を取り戻すことにつとめた。5月下旬からはホテル地下の温水プールでの歩行トレーニングも始めた。
それでもハルカの体力は一般人並みには戻らなかった。復帰戦の流れについて、ブレード上原、小川あかりと杉浦社長とで入念の打ち合わせが重ねられた。
「こんなの・・着るの・・・?」
新調されたリングコスチューム。ボトムスはともかく上はタックトップ状で露出が少し多い。そして黒いリングシューズ。
6月に入ってもリングでの練習はできない状態で、引退試合の成立は危ぶまれたが、杉浦社長も腹をくくったのか「6人タッグで実質2対3で流れを作ってしまえばいいじゃないですか」とか言い出した。
そして6月下旬
「受け身だけは、覚えてください」
ホテルの一室、仮設マット上で小川あかりがハルカを組み止めた。
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そして試合前日。最低限の試合は成立できそうだと判断したSPZ杉浦社長がGOサインを出し、ホームページに「ハルカ復帰戦・引退試合開催について」をリリースした。
直前に発表したのは、ハルカの体調の見極めと、マスコミの過熱報道を警戒したのと、「死の淵をさまよったハルカを営業宣伝に利用するのか」と後ろ指をさされかねないからであった。
そして試合当日。
体力の消耗を考慮し、ハルカは夕方までホテルで静養し、第1試合が始まった午前6時半に、小川あかりと一緒にホテルを出て、ブレード上原の運転するワンボックスカーで新日本ドームへ。7時15分頃会場入り。
リングコスチュームに着替えた後、メイクを施す。
「・・・・・・・」
さすがにハルカ、緊張を隠せない。けっきょくさいごまでリングを用いた練習は出来なかった
(続きます)
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