大仁田と渕(7)
しかし、渕正信は(まあ裏で動いたのだろうが)武藤、小島、カシンらを新日本から引き抜き、荒谷、奥村、長井らそこそこの助っ人選手を集めるや、2001年冬ころから第一線を離れ、年齢相応のスポット参戦に切り替えるようになった。
いっぽう大仁田は集客の見込める大物フリーレスラーとして新日本マットに上がったり、自ら主宰した「大仁田厚プロレスリング」の自主興行を手掛けたりしつつ、2001年には参議院議員に当選。2007年まで1期6年を務める。そのあとも200年代後半は集客の計算できるフリーレスラーとして、引退宣言。休養、復帰を繰り返しながら活動を続けて行った。
渕正信は武藤全日体制下では、全日本一筋の古参として処遇されていたものの、ギャラが高かったのか基本的に地方巡業にはあまり帯同せず、2009年ころからは取締役も外れ、フリーの身分として全日本に上がる形態に切り替えられた。それでも腰痛ボディスラムや長年培った観客を沸かせる技術で、後楽園ホールでは往年の凄味を垣間見せつつファイトしていた。このあたりから決め技にスモールパッケージを多用しだす。
武藤全日本も集客に苦しみ、スポンサーとして入ってきた胡散臭い白石社長に乗っ取られるに及んで全日本はまたも分裂。紆余曲折の末、秋山全日本として、90年代後半色を残した団体に変わった。渕さんは生涯全日本を表明し、スポット参戦ながら、老獪な技術と腰痛とスタミナ切れの痛々しさを出した自虐的ファイトに芸風で、いまなお全日本一筋の象徴として活躍し現在に至る。
大仁田は2010年代に入り自らが開発した電流爆破デスマッチを活発化させ、曙、高山義廣らと大花火抗争を繰り広げ、現在に至る。昨今のプロレス不況の中、大仁田の知名度と個性と集客力に頼らざるを得ないという事情が団体側にもあったのだろう。
そして2014年12月6日の大阪、85年以降、決して交わることのなかった王道と邪道という2つの道を歩みつづけた二人が、(集客の足しにしたいという全日本側の思惑があったのだろうが)まさかのタッグ結成。30年の時の流れは相当重い。
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