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2015年11月30日 (月)

歩いてきた道 30(終)

◆歩いてきた道(30)プロレス文化は不滅です

 娘のあかりは後輩選手に慕われていたようで、現役を引退してからもレフェリー兼裏方スタッフとして会社に残り、頼りにならないレフェリングでいまも会場を盛り上げています。また、SPZも数年前に、杉浦さんからバトンを受けた山本(和男)社長のもと、過度なエンターテインメント路線から、ある程度はスポーツ性を持たせた路線へシフトチェンジし、お客様に支持されるプロレス団体を目指してレスラー・スタッフ一丸となって頑張っています。
 60代半ばの頃、娘の明里が結婚相手を連れてきました。相手の方は現役時代から親交のあったマスコミ記者さんでした。まだ孫の顔を見ることはできていませんが、頼れる人が出来て安心しています。でも結婚式ではなぜか涙は出ませんでした(笑)。

 私も年齢を重ね、還暦前後の頃はこれまでにないくらい自由な生活を味わい、主人とふたりでアメリカやヨーロッパなどをゆったり旅行しましたが、何かが足りない。やはり最後まで人生を突っ走って、倒れるときは前のめり。父親が生前よく言っていました。
 そこで、還暦を過ぎてからは、元レスラーとしてプロレス界発展のために微力ながら活動するよう心がけました。SPZプロレス中継のゲスト解説や、チャリティイベントなどに顔を出して老化を防いでいます(笑)。

 先日はSPZプロレス博物館の企画で、ちゃんこを作って1杯300円で売りさばくイベントを娘と担当しました。若いころ道場で食べた味を再現するのは面倒くさいので、牛肉と玉葱、季節野菜を鍋にどばどばぶち込んでコンソメその他で煮込み、ちゃんこ鍋と言うより自分のやりたい創作料理っぽくなってしまいましたが、お客様にはさいわい好評を博し、用意した分はすぐ完売しました。

 そうこうしている間に、私も70歳を迎え年金をいただける齢になりました。最近は出歩くのも少し億劫になってきましたが、とはいえまだまだ美味しいものを食べたいので、引き続きプロレスに関わる仕事を少しでも続けてゆきたいと考えていたところ、SPZから相談役になってもらえないかとのお話をいただき、ありがたくお受けすることにしました。とはいっても戸塚の本社に日参して、来客とお茶を飲んだり、新聞を読んだりして過ごしているだけですが。あとはリーグ戦とかの記者会見の際に座って、ひとこと挨拶するだけ。歴史と伝統あるプロレス団体ということを主張するためのお飾りです(笑)。

 SPZもまもなく創業90年という老舗団体となります。新日本女子さんは創業100年を超え、男子でも100年を超える老舗団体があります。プロレス団体は大きな設備や商品在庫を必要としない興行会社であり、良いファイトを見せることのできる選手さえ揃っていれば収支あいつぐなうからビジネスとしては難しいほうではない。と監査法人に勤めていた母親がよく言っていました。とはいえ、2時間半の興行の対価としてのチケット代を支払う価値があるかどうかはお客様が判断されることですので、お客様に楽しみと興奮を提供し続けられるようなプロレス界であってほしいと願っています。

 1年ほど前に、娘夫婦と3人で北海道にカニを食べに行きました。そのとき雪が凍った道で、私は滑って転倒してしまったのですが、反射的に両腕と背中で受け身を取り、大事には至りませんでした。そのとき自分は、現役を離れても、死ぬまでプロレス人なのだなと感じました。さして長くない残りの人生ですが、終了のゴングが鳴るまで、プロレス振興のために微力を尽くしてゆきたい、そう思っています。(終)

(フローラ小川:元プロレスラー)

2015年11月29日 (日)

歩いてきた道 29

◆歩いてきた道(29)生々流転

 小川あかりがデビューしたとき、祖母にあたる小川ひかるはすでに81歳の高齢で、心臓に持病を抱えていましたので、何かあってからでは遅いと考え、SPZ入門の頃に松本の生家を処分させて東京に呼び寄せ、桜上水の介護付きマンションに引っ越してもらいました。あかりは典型的なおばあちゃん子でして、私よりなついていました。とはいえ孫までプロレスラーになってしまったので、毎週のSPZプロレス中継を楽しみにされていました。2083年の暮れ、母親の様子がおかしいと介護施設側から連絡があり、意思の疎通ができなくなってきているとのことでした。それまでも定期的に様子は見にいっており、まだ施設内を自分で歩くことも出来ていてしばらくは大丈夫かなと感じていたのですが、一気に老いが来て、階段から転げ落ちて歩けなくなったので、私が母親の介護を行うことにしました。したがって「ザ・ガロニ」は惜しまれつつ廃業。オープン4年半で幕を閉じることになりました。私が抜けたところへもうひとり料理スタッフを雇うと確実に赤字になるので、やむを得ず12月いっぱいで店を閉めることにしました。

 89歳になった母親は老いて頑迷になり、ことあるごとに空腹を訴えるようになりました。しかも天ぷらが食べたい刺身が食べたいと、身体に良くなさそうな高級料理を食べさせよと主張してくるのには困りました。しかたがないので西新宿のホテルにあるそこそこの料理店に連れて行くとバクバクバクバクと年甲斐もなく良く食べる。さすが元レスラーと思ったものです。母親も自分の死期を本人なりに悟っていて、食べ納めに走っていたのかもしれないと感じたので、自分も積極的に止めませんでした。

 そして何回目かの西新宿で、エレベーターの中で意識をなくしました。すぐ病院に運ばれましたが、即入院。内臓がいくつも機能不全を起こしており、お医者さんからは覚悟を決めておいてくださいと言われました。それからは入院先の病院に日参しましたが母親の様子は日ごとにやつれていきました。やがて3月シリーズが始まり、娘のあかりは巡業先と都内の病院を往復する日々を続けました。そして3月22日、宇都宮の試合に出かけるあかりを呼び止め、母親はあかりになにやら耳打ちしました。後で聞くと、よく身のほどを知りなさい、と言われたそうです。そのあとは母は永い眠りに就きました。

 父親が旅立ったときはさほど現実感がなかったのですが、母親とは過ごした密度が違ったので、このときは娘ともども涙が止まりませんでした。現役引退から65年が経過しているにもかかわらず、SPZは1期生最初の入門者ということで、3月シリーズの最終戦を追悼興行としていただき、献花スペースにはかなりの量のお花が手向けられたのを見て、ああ、ファンに愛された人だったんだなと感じました。

 娘のあかりはそれからもしばらくの間、現役を続け、2085年の12月24日、26歳でリングを降りました。ようやく娘がプロレスのリングという危険な場所から足を洗うとあって、ホッとしました。これで日々SPZの公式サイトで試合結果をチェックする必要もなくなりました。これまでアングルで出演していたいきさつもあったので、引退興行が行われる埼玉ドーム大会へ足を運び、引退セレモニーに出せていただきました。娘は花束をあげても喜ばない人なので(笑)、前の日にセレクトショップでブランド腕時計を買って、それをレスラー卒業記念のプレゼントにしました。

 その間主人は相変わらず会社人間だったのですが、あかりが引退してからすぐの頃、体調を崩して勤め先のIT企業を退職したので、久しぶりに家族でゆったり過ごせました。

2015年11月28日 (土)

歩いてきた道 28

◆歩いてきた道(28)自分のお店で奮闘

 自分のお店となる物件を見つけてからは知り合いの業者さんに頼んでぱぱっと内装工事を行い(居抜きでしたので、思っていたよりお金はかかりませんでした)テーブルとイス、調理器具や食器類は通販サイトで買いそろえ、料理学校のつてでシェフ1人を採用し、あとはテーブル係を2人採用して、食材や酒の仕入れルートを手配し、必死の思いでオープンにこぎつけました。

 屋号の「ザ・ガロニ」ですが、ガロニとは洋食レストラン業界でメイン料理の皿に一緒に盛られる付け合せの野菜のことです。添え物の野菜も美味しいお店という意味合いもあってつけました。メニューは洋食中心で、知り合いのコンサルタントにも助言され、食材ロスによる赤字を出さないためにラインナップを絞りました。元レスラーのお店ということを前面に出すと、「最初はそれ目的でいっぱい集客できるけど、定番メニューしかないので、2度目の来店がないと思う」というコンサルタントの助言を聞き入れ、あえてフローラ小川の名前は前面に出さず(少しだけ会場で宣伝しましたけど)普通の洋食店の体裁をとりました。

 オープン直後はそこそこ忙しかったので私も厨房に立ちましたが、焼いたり揚げたりといったメインの料理は基本的には採用したシェフに任せて、自分は黙々と添え物のキャベツを刻んだり、温野菜のブロッコリーを茹でたりしていました。

 将来は2号店3号店を出して、ゆくゆくは日本各地にチェーン展開してゆければいいなあ、という甘い幻想を抱いていたこともありましたが、飲食店経営はやってみると儲かりません。いいお肉や野菜を仕入れると個人店ではどうしても高くついてしまい、コンサルタントに言われた「原価率を33パーセント以内に抑えなさい」という言いつけは最後まで守れませんでした。月の売上から3大経費である食材原価、スタッフの人件費、賃料を引くともう残りは20万ちょっと。このほかにもナプキンやダスター、洗剤などのお店を維持していくための消耗品費があり、時々調理器具が壊れたりして(土日祝日に限って故障するのです)思ったよりお金が出て行き、私の手取り収入は10数万円という惨状?でした。

これなら雇われ料理人をしていたときの方が儲かったかな、ともチラッと思いましたが、赤字が出ないだけましなのかも知れません。
 ということで「ザ・ガロニ」の経営に専念したいという思いがあり、SPZのアドバイザーは辞任を申し入れました。それでもビッグマッチではあおりVTRにお店の宣伝もかねて出演しました。小川あかりを「この三下レスラー!」と口撃するだけでしたが。

このあとのアングルをどうするか、社内で検討が重ねられましたが、その頃若い頃の自分と背格好がよく似た、山田輝美さんという新人が入門しました。その子に「アポカリプス病院の欲野先生があみだした、ips細胞の力で若返りに成功したフローラ小川」のギミックを与えて、小川あかりと対戦させる、というとんでもないアングルを杉浦社長が考え付きました。これなら私は名前を貸しているだけですので基本的に会場に行く必要がなく、たまに「変身前のバージョン」であおりVTRに出演するだけで済みます。とはいえ山田さんはフローラ小川の動きを完全に近い形でコピーするため、全盛期の私の試合のビデオ映像をかなりの時間見て、研究されたようです。
これで私は飲食店経営に専念できると思いましたが、思いもよらぬ形で打ち止めとなりました。母親が倒れたのです。

2015年11月27日 (金)

歩いてきた道 27

◆歩いてきた道(27)ついに自分の店を出す

 20数年ぶりにリングに上がって歓声を浴びるとやはり心地よいのですが、調子に乗って試合前の会場で、昔懐かしさのあまり、リングの上で受け身を取ってみたりすると背中が痛い(笑)。でも久しぶりに娘めがけてドロップキック(のような、動き)を決めたときは懐かしさを感じました。そのあとも陽電子砲、火炎放射器、粒子ビーム砲などを持ち込み(くどいようですが、模造品です)対戦相手の殺害を図るもことごとくかわされる、というアングルを受け持ちました。

たしか2077年頃だったと思いますが、試合ゴング前にブランドバッグからダイナマイトを取り出して、ライターで火をつけて、フォルトナ紫月選手めがけて投げつけるシーンはあまりにシュールだったためか、プロレス雑誌の表紙を久しぶりに飾りました。あのときは満員の観衆から爆笑とどよめきが起こったのを良く覚えています。かつてのSPZ世界王者が親バカおばさんに徹するムーブが受けたのでしょう。

 でも杉浦社長のすごいところは先を見据えていて「同じアングルを続けているとお客様に飽きられてしまう。次はどうしようか」という策を常に考えているところです。
で、決まった次のアングルが「負け続ける小川あかりを母親が見捨てる」というものでした。わが子をアングルとはいえ「ふがいない人、小川一家の面汚し、落胆のブタ」などと大観衆の前で罵倒するのは胸が痛みましたが(笑)。そして私の役回りは恥さらしの小川あかりをマット界から引退させるためにいろいろ悪だくみするおばさん、というものに変わりました。

 そうこうしているうちに小川あかりもSPZでもまれたせいか、それなりの実力はついたようで、SPZクライマックスの公式リーグ戦で当時最強といわれたSPZ世界王者の玄海恵理選手からSTFでギブアップ勝ちの大金星を挙げるなど健闘し、3勝4敗の6点でリーグ戦を終えました。でもまあ杉浦社長も「基本的に、力はないので休憩後かセミ前のおもしろアングル要員として使う」方針でした。そしてある日、外国人選手に負けて自分が引退勧告し、それに逆ギレした娘が突如「ぐれてやる」と宣言し、(あくまでアングルですが)私の顔面をグーで殴りました。手加減は一応するという話でしたが、それでも少し痛かった。

 次月以降のアングルはさらに斜め上を行き、ぐれて不良化した小川あかりをまっとうな道に戻そうとする母親を演じ、当時、美人カウンセラーとしてテレビで人気のあった佐伯あずみさんまで登場しました。そして小川あかりは仲間を呼んで「グレンタイ」なる悪役集団を結成し、ストーリーは先の読めない展開となりました。

こうなると私は本部席で「オーマイガッ」などど絶叫するかわいそうな母親を演じる身となりました。2079年5月の横浜大会では、とうとうロープ越しに娘のアックスボンバーを食らってリング下に転落し、舌を出して失神して担架で運ばれる役を演じました。で、とうとう母親である私もおかしくなって、トカレフであかりを始末しようとするが失敗、というストーリーを経て、最後はグレンタイから小川あかりが追放され、そして私がネット通販で買った「ひかりのたま」で小川あかりの悪の心を摘出するという流れで一区切りになりました。

 こうやってお金を稼ぎ(笑)ようやく新宿二丁目にいいレストランの物件を見つけ、長年夢見た自分のお店「ザ・ガロニ」を2080年5月31日にオープンしました。

2015年11月26日 (木)

歩いてきた道 26

◆歩いてきた道(26)娘を売り出す

かくて、私の娘、西明里は、SPZ伝統の3代目ということを強調するためか「小川あかり」というリングネームを与えられ、前座戦線で奮闘していましたがやはり弱い(笑)。練習熱心なのは買いますが、とにかく馬力がつかない。ある程度パワーをつけないと上へは行けないので大成は難しいのでは?と感じました。

 その頃になると主人はIT会社の最前線で働き、海外出張も月に1-2回のペースで出ていました。娘はレスラーとして普段は戸塚の道場で身体を鍛え、そして全国を巡業で回る。ということでせっかく大枚をはたいて買った笹塚の家もがらんとした空気に(笑)。 私はSPZのアングル会議に出ながら、新宿や渋谷で料理修行を続けました。その頃は知人のつてで渋谷のロシアレストランでボルシチを作ってました。

SPZに参戦する外国人選手ルートの最大の供給源がロシアやその周辺でして、ロシアはレスリングが盛んなのでプロレスに転向させやすいっているのがあるんですね。で、そのレスラー達の行きつけのひとつになっていまして、大挙してきていただいて「ふるさとの味と比べるとまだまだだが、ものによってはそこそこうまい」という評価をいただきました。ある時、SPZで試合をした帰りに食べにきていただいたロシア人選手が「あなたの娘と闘ったよ。軽くて扱いやすかった」と言っていただき、苦笑いするしかありませんでしたね。

 ということで娘がプロレス入りしてからは、一家揃ってお寿司屋さんとか、家族旅行に行くという楽しみはなくなってしまい、3人が3人ともそれぞれのやりたい仕事に突き進むという恐ろしい家族になりました。
 で、フローラ小川の売りだし方でしたが、「弱い三流レスラー」ではインパクトに欠けるので、ある日の会議で、「ビッグマッチだけ出場しませんか?」という話が出ました。なんでも「わが娘を勝たせるためなら手段を選ばないクレージーな母親」というギミックで、ビッグマッチのたびに登場しては武器を手配して対戦相手をつぶそうとする、というアングルを与えられました。当時の私は自分の店を出すためにお金が必要でしたので(笑)こころよく引き受けました。

 一応リングに上がるのでリングシューズを新調し(50になってから作るとは思いもよりませんでした)コスチュームは黒いジャンプスーツで、リングネームは「小川母」。あくまでフローラ小川ではありません。最初の登場でいきなり「抜本的な手段で瞬殺します」と言って、ネット通販で買ったロケットランチャー(当然本物ではありません)を発射して対戦相手(確かフォルトナ紫月選手だったと思います)を殺そうとするという無茶苦茶なアングル。これはすべて杉浦社長の発案です。で、ロケットランチャーを発射したものの外してしまい、そのスキを突かれてフォルトナ紫月選手のスピアタックルを食らってダウンし場外で転がる・・・という親バカを演じました。

 いちおう小川母としての参戦?はシリーズ最終戦のビッグマッチ(埼玉・東京・横浜)に限るという契約でしたので、普段はロシア料理店の手伝いをしながらシリーズ最終戦だけ会場に駆けつけるというパターンになりました。で、目標である自分のお店ですが、資金以上に苦戦したのが物件探し。知り合い頼みしかないので苦労しました。条件としては笹塚から通える範囲で、賃料もそんなに高くないところ。そんな虫のいい話があるわけがなく、たまに物件を見に行っては賃料の高さに嘆息するパターンでした。

2015年11月25日 (水)

歩いてきた道 25

◆歩いてきた道(25)娘のプロレスデビュー。

 わたしがSPZにコネ同然で入門できたのは、当時取締役だった父親が口利きしてくれたからであって、娘は運動神経もよくないので自分がプッシュしない限り無理だろうと思っていたのですが、明里は自分の知らないところで動き、勝手にSPZの新人テストを受けて、悪いことにそのテスト会場にいた審査員が、引退後も広報担当で会社に残っていたSPZ46期の杉浦美月さん。

 杉浦さんいわく、どこかで見た顔だな、と思って応募書類をめくったら西明里と書いてあって住所が笹塚。なにしろ杉浦さんはデビュー戦で私とやっているので気づくわけです。で、テスト後に呼び止めて「あなた、まさか、フローラ小川さんの・・・」と声をかけてしまったわけです。その後の杉浦さんの動きが早かった。集客のネタになる、と判断され、会社上層部にかけあって入門OKの承認を得て、すぐ私の携帯に電話をかけて「お預かりさせていただいてよろしいでしょうか」って言ってきました。優香さんばりの速攻勝負。苦笑いするしかなかったですね。

 杉浦さんにはあの大量離脱のときに残ってもらった義理もあったので「使い物にならないと思うけど、それでも良ければどうぞ」と言いました。そうしたら「そのへんのところはなんとかします」と返されました。そうです。SPZは何とかしてしまう会社だった。普通の女の子を格闘サイボーグにするノウハウに長けているのです。それは自分がいちばん良くわかっていることでした。あの新人の頃の地獄の練習を思い出しぞっとしました。 

合宿所に入寮する娘にはいちおう「つらくなったらいつでも脱走していいからねー。あなたの部屋はそのまま残しとくから」と言っておきましたが、娘もなんとかハードな練習についていったようで、4月シリーズの釧路大会でデビューを果たしました。親バカなので、関係者の方からデビュー戦の映像データを取り寄せました。相手は相羽(和希)選手で、7分くらいで負けていました。デビュー戦で3分で負けた自分で言うのもなんですが、これは対戦相手の相羽選手に遊んでもらったな、と感じました。

 その頃のSPZは、黒田社長の方針の下、シングルマッチしか組まない格闘技色を前面に出しているハードなプロレスが売りの団体で、娘もいつか大ケガさせられてしまうのではないかとハラハラしましたが、たしかその年の夏に団体始まって以来初のリング禍が起こり、当時の看板選手が試合後に突然倒れて、しかも意識が戻らないという事件が起こり、世の中的にも広く報道されてしまいSPZはバッシングにさらされ、黒田社長は引責辞任を表明し、後任は「受け身を取ったことがあって、会社の数字がある程度わかる人」ということで杉浦美月さんに白羽の矢が立ちました。

 杉浦さんは現場出身者だけあって選手の体調に配慮し、タッグマッチを復活させ、かつ「ハードな試合内容で魅せるよりも、ストーリーラインとアングル、ギミックをきちっと立案し、それを粛々と実行したほうが選手の負担が少ない」と考え、エンターテインメント的なプロレスビジネスを希求していました。

それでまた杉浦さんから電話がかかってきて、「アドバイザーとしていろいろ知恵を出していただけないでしょうか」と言われ、月に2回程度開かれる「アングル会議」に出席するようになり、久しぶりにSPZ本社ビルに足を踏み入れました。メンバーは意外に少人数の会で、杉浦社長、リングスタッフからレフェリーを経てフロント入りした山本(和男)統括部長、イベント会社の実務の方、杉浦社長の知り合いの広告代理店の方、それと私の計5人でした。

2015年11月24日 (火)

歩いてきた道 24

◆歩いてきた道(24)娘もレスラー志望

 娘の明里は自分に似ず運動は苦手でして、6歳のときに「海へ泳ぎに連れて行って」と言ってきたので、忙しかったので区民プールに連れて行ったところ、自分が目を離した際に溺れました。幸い発見が早かったので大事には至りませんでした。体育の成績も確か良くなかったので、間違ってもプロレスラーにはならないだろうなと思っていましたら、松本にある母親の実家でしまってあった小川ひかるのリングシューズを見てしまったらしく、プロレスに興味を持ち始めました。

いまの世の中、インターネットというものがありますから、母親が子に話さずとも、自分のプロレスラーとしての経歴くらい少し調べればバレてしまうものなのです。そしてある日「プロレスラーになりたいんだけど、どうすれば良いか」と相談されましたので、「フッ」と鼻で笑って返しました。暗にあなたのようなどんくさい運動音痴にできるわけがないでしょう、と伝えたつもりだったのですが、それで娘の反骨精神に火がついてしまったのは誤算でした。

 笹塚の自宅マンションのすぐ近くにスポーツジムがあって、プールやサウナのほかにマシン系トレーニング、フリーウェイトといった設備がそろっていて、娘はそこに通いだしました。まあでも適性のない人がいくら通ってもムダだろうと高をくくっていたら、やはり継続は力なりなんですね。中学に上がる頃には「チェストプレス(負荷をかけて大胸筋を鍛えるトレーニングマシン)35kgできるようになった」とか言ってきましたので仰天しました。

 しかしそのころ自分は料理人修行にはまっていまして、都内のレストランで雇われ調理師として修行を続けていました。復帰して最初のお店は新宿三丁目のステーキハウス。高級店ではなく量をさばくお店でしたので、自分もすぐにステーキを焼く立場となりました。しかし鉄板の前に立ちっぱなしでしたので暑くてしんどい(笑)。結局そこには1年いました。

メインの料理がステーキしかなく、他の料理を幅広く勉強したかったので次は西新宿のホテルのコーヒーハウスで修行しました。ここはメニューが豊富で非常に勉強になったのですが、ブレックファストが朝5時から営業!なので朝4時には出勤しなければならないので早番のときは難儀しました。3時過ぎに起きて、夜明け前の甲州街道を愛車で突っ走るのです。そしてサンドイッチ作り、スクランブルエッグ作り。

逆に中番のランチ担当のときはアラカルト主体でいろんなオーダーが入るので、あわただしくも面白かったです。得意料理は月並みですがハンバーグステーキです。ああいうところのハンバーグは事前にセントラルキッチンで下ごしらえや成型がされたものが納入されており、後は焼くだけでしたが、事前の下ごしらえが良かったのか、非常によく出ていました。調理設備の整ったホテルですので、冷蔵庫から取り出しオーブンに突っ込んで、タイマーが鳴ったら取り出し、シェリー酒で香りをつけてソースをかけてもう一度オーブンに突っ込んで取り出し、付け合せの温野菜3種類を添えて完成。

 こういう熱中することをやっていると時のたつのは早い。あっという間に40代後半のおばさんになってしまいました。雇われ料理人もいいのですが、数年でいいので自分の店をオープンしたいという夢を持ち続けてはいましたが、年齢とともに体力の衰えを真剣に感じるようになってきました。娘が「まだドロップキックできる?」と言ってきまして、ちょっとイラついたので立たせて、強烈なのをぶちこんでやろうと思ったのですが打った後の受け身で怪我しそうで、カーペットの上だと怖くて出来ないんですよ。

2015年11月23日 (月)

歩いてきた道 23

◆歩いてきた道(23)新しい命を宿す

 私が「よこ川」で味噌汁を作ったり天ぷらを揚げている頃、古巣のSPZでは団体の分裂劇が起こっていました。ご健在の方も多いので、細かな話は差し控えたいのですが、平たく言うと会社フロントと現役選手との間で利益分配をめぐってコミュニケーション不全が起こり、選手会が一致団結して新会社を立ち上げて独立するという騒動が起こりました。私はもうSPZとは直接関係がなかったのですが、株主という立場でもありましたし、私の母親が「あの人が作った会社がなくなってしまう」と非常にあわてたため、できる範囲で後輩の選手に思いとどまるよう説得の電話を入れました。

 しかし、選手のほとんどは新団体を立ち上げ、SPZに残ったのは大谷優香選手と杉浦美月選手の2人だけという非常に苦しい状況に陥りました。このとき水面下で現役復帰の打診がありましたが、もう新しい道を進んでいるのでそれは出来ないと断りました。

けっきょくSPZは急遽、1期生である私の母親が社長として緊急登板し、残った選手や助っ人選手・外国人選手でシリーズを回して急場をしのぎました。
 選手は大量離脱したものの、財務は安定していますし、チケットを売る営業部隊は健在でしたので、会社の屋台骨が揺らぐことはありませんでしたが、トップを張らざるを得なくなった杉浦さんには苦労をかけさせてしまったと感じています。

 団体が立ち直りの兆しを見せる頃、私は子供を身ごもりました。ちょっと体調が優れない状況が続いたので、病院に行ったところおめでたを告げられました。こうなると料理人修行はお休みせざるをえなくなり、上大岡の自宅で静養に入りました。

 2059年の11月、私は娘を出産しました。母親の「ひかる」と関連のある名前を考え、また明るく生きて欲しいという願いもあって「明里」と命名しました。そう、後のSPZレスラー、「小川あかり」です。

 そのころ主人が勤め先のIT会社で責任の重い役職になり、帰宅できず都内の会社に泊まりこむことが多くなりましたので、娘の教育のことも考え、思い切って上大岡のマンションを手放し、都内に引っ越すことにしました。新宿に近い、笹塚の3LDKの新築マンションを買い(これで選手時代の蓄えの大半を使ってしまいました)親子3人で新しい生活を始めました。

 そのころ、SPZも旗揚げ50周年を迎え、若手選手が多数育ってきており、緊急登板した母親の今野ひかる社長も自分の役目は果たしたと判断したのか、社長を知り合いの実業家、黒田宏さんに譲り、そのついでに長く住んだ川崎のマンションを処分し、松本の実家に帰り隠居生活を始めました。笹塚で一緒に暮らそうと話したのですが、「気持ちはありがたいけど、生まれた地でもう少し過ごしてみたい」と母親は言って、悠々自適の生活を手に入れました。

 しばらくは娘のことを考え、基本的に専業主婦で過ごしました。ときおりSPZプロレス中継のゲスト解説や、知り合いのコックのヘルプで小銭を稼ぎ、娘のミルク代の足しにしていました。だんだん娘が大きくなるにつれ、子供の手が離れてきたと感じたので、もう一度料理修行をやってみたい、そういった思いがわいてきました。でも小さい娘をひとりで置いておくのもかわいそう。そう考えたので娘に特急「ウルトラあずさ」の回数券を与え、「松本のおばあちゃんの実家で遊んできなさい」と言ってしまったのです。

(フローラ小川:元プロレスラー)

2015年11月22日 (日)

歩いてきた道 22

◆歩いてきた道(22)第2の人生は料理人へ

 引退試合を白星で終え、レスラー・フローラ小川としての人生にようやく幕を閉じました。引退試合の翌日から残務整理がありました。ライセンスの返納手続きとか、道場のロッカー私物整理とか。なにしろ12年もいたので、私物は一度に持って帰れる量ではないわけです。きれいさっぱりプロレスと別れるため、リングシューズもコスチュームも支援者の方にあげてしまいました。デビュー前に買った2つのスーツケースも会社に寄付しました。

 そのあと裏方さんへのあいさつ回り。そしてお世話になった記者さん、支援者の方々をお呼びして、これまでの感謝をこめてベイサイドホテルで「引退記念パーティー」を自腹で盛大に行いました。今だから言えることですが半分はなかなか引退させてくれなかった会社へのあてつけの意味合いもありました(笑)。

 そして5月から有給消化に入り、6月15日にSPZとの雇用関係がなくなりました。 引退した選手はしばらく温泉にでも行って静養し、ガタガタになった身体を休める、という方が多いのですが、時間を無駄にはしたくなかったのですぐ行動に移りました。

 引退後の仕事ですが、会社に残ろうという気はさらさらなく、まったく別の道を歩もうと現役時代の晩年のころからプランを温めていました。なにしろ12年間もプロレス団体にいて、日本全国のおいしいものを食べまくっており、いっぱしの食通のつもりでいたので、それを生かそうと思い、第2の人生は料理人を目指すことにしました。

現役最後の1-2年は、休んだり試合に出たりという状況でしたので、身体にさしさわりのない範囲で道場近くの「よこ川」に手伝いにいき、皿洗いや玉葱の皮むきなどをしていました。そして移動バスの中でテキストを精読し、調理師免許を取得するなど、引退後のために着々と手を打っていたわけです。いずれは自分の店を持ちたいという願望はありましたが、まずはプロレス同様に腕を磨かなければお話にならないと考えたのです。

 とはいえ料理道の世界もプロレス以上に奥が深い世界でして、師匠の横川マスターには何度もダメ出しをいただきました。しかもマスターは東新宿の名店「天いな」に10年いて煮方まで務められた方。常人には想像もつかないこだわりを持っていました。けっきょく「よこ川」には5年ほどいましたが、最後までランチタイムの味噌汁係でした。

 結婚してからは上大岡駅近くの中古マンションに引越し、そこでIT会社に勤める主人と生活していました。朝は8時頃出発してクルマを駆って戸塚へ。割烹着に着替えて食材の下ごしらえ、出汁取り、米とぎとやることはいくらでもありました。

 お昼のメニューでよく出たのが2000円前後の松花堂弁当か、1500円くらいの丼もの。私を含め3人の調理スタッフが手際よく作っていきます。メインの料理である刺身を切ったり、煮物を、焼き物を作るのが「チーフ」と呼ばれていた古株の方で、私はおもにチーフの補佐役を務めていて、添え物の小鉢を作ったり、あらかじめ作り置いた茶碗蒸しを仕上げたりとか、オーダーが通るとすばやく重箱に料理を盛り付けて、ごはんを盛り、味噌汁をよそい、漆塗りのお盆に載せてデシャップ台(ホールと厨房の間にある、料理を置くための台)に置き、「(料理名)上がりました」とホールスタッフに伝えます。12時から14時までのいわゆる昼のピーク時は息もつけません。長年のレスラー生活でつちかった機転とか立ち回りのよさがここでも役立ちました。

(フローラ小川:元プロレスラー)

2015年11月21日 (土)

歩いてきた道 21

◆歩いてきた道(21)結婚、そして引退

 入社11年目のSPZクライマックスは予選会を2勝1敗で通過し、最後の出場となりました。しかしファイト内容は精彩を欠き、結果も7戦全敗と落日のイメージを決定付けてしまいました。後輩も(ミネルヴァ)石川さん、中村(真帆)さん達が一足先にレスラーを卒業し、自分も引退を何度か中森社長(当時)に申し入れたのですが、いろいろ事情もあって慰留を受け入れました。そして11年目新春のドーム大会ではとうとう前座の第1試合に格下げされ、しかも対戦相手の真壁(なつき)選手に殴り倒されて負けました。それでもタッグマッチではパートナーの白石さん、ナラタさんに助けられていたので、タイトル戦線で闘うことができました。

引退したくても出来ない状態に追い込まれ、夜逃げ、失踪をも考えましたが、このころ私は「よこ川」で出会った会社員の方と、熱烈な恋愛状態にありました。その方がそこそこ名の知れたIT企業に勤めているので大それたことはやりにくいですし、何より母親の顔を潰すことになります。しばらくだましだましリングに上がり、どうにもならなくなったら欠場して治療を繰り返しました。

入社12年目の頃には、SPZクライマックスの予選会にも敗退し、9年連続で出ていた本大会出場記録も途切れました。そのシリーズの最終戦では外国人選手のラリアットを食らって首にもシビレが走りました。これ以降は会社も配慮したのか、タッグのタイトル戦を5ヶ月の防衛期限近くなってから組んでくれるようになりました。現役末期の映像を見返すと、自分でもひどいなと思います。シングルマッチではただやられるだけ。リングを使っての練習がほとんどできず、試合前の調整はストレッチと会場外周をぐるぐる歩くだけでした。

それでも最後に白石さんと組んで出たウルトラタッグリーグではパートナーの白石さんが頑張っていただいて、27歳でまさかのタッグリーグ優勝という珍記録を打ち立ててしまいました。
このままではいいように使われると考え、引退後に結婚しようと約束していた交際相手と話しあい、12月24日に入籍し、翌年2月には盛大な結婚披露宴をベイサイドホテルで行いました。これで人妻レスラーとなったのですが、自分への声援はまだ根強く続く。とはいえ、これでもう自分だけの身体ではなくなったので、結婚した後に支援者のつてで、スポーツ医学に定評のあった病院へ行き、全身の悪いところを調べてもらいました。

担当していただいたお医者さんは後に名医と呼ばれる欲野(深三)先生だったのですが、診察を終えるや「酷い。よく今までやれたね」という答えでした。主人とも相談し、「レスラーを続けると大変なことが起こる」という趣旨の「ライセンス返納勧告書」なるものを書いていただき、それを会社に提出して、どうにか引退を承認していただきました。

 そして2054年4月、デビューまる12年の頃「フローラ小川引退シリーズ」が組まれ、8会場でファイトしました。もうズタズタの状態だったのですが、なんとか事故なく最終戦の新日本ドーム大会までたどり着きました。
 引退試合の対戦相手は後にSPZ社長になられる杉浦(美月)さん。彼女にとってはデビュー戦。異様な雰囲気の中での試合でしたので、杉浦さんとしてもやりづらかったのではと思います。もうこれで最後なので、ある程度身体が壊れてもいいと考え、思い切ってファイトしました。新人選手は殴られるのに弱いので、頭突きや掌底で弱らせてから、最後は体当たり気味のタックルでなぎ倒し、3カウントを取って引退試合をなんとか勝利で終えました。

2015年11月20日 (金)

歩いてきた道 20

◆歩いてきた道(20)どこまで頑張ればいいのか

 SPZのレスラーの選手生命は普通8年前後、長い人でも10年程度です。男子選手と違って、頑強な肉体を作るといっても限度がありますし、体重が軽いので勢いよく投げられる回数が多いのです。それにSPZはハードな技の応酬が売りの団体です。試合数を重ねるうちにほとんどの選手が腰を痛めます。そして腰をかばいながらファイトしていると他のところも痛め、テーピングや痛み止めが手放せなくなるという悪循環に陥り、満足に練習ができなくなるので、せっかく作りあげた身体もしぼんできます。

最近の例では市ヶ谷レイカ選手も、全盛期はすごい体つきをされていたのですが、入院、長期欠場を経てリング復帰してくるといっきに細くなってしまったケースがあります。そうすると怖いもの知らずの若い選手の猛攻をさばききれず、心が折れてきて「負けちゃおうかな」という心理に陥ります。

で、会社側もベテラン選手の力が落ちてきたのを見抜くと、メインのタイトル戦線からは外して、休憩後、休憩前、前座とポジションをだんだん下げてきます。そして前回お話したようにギャラも減額されます。トップを取った人にはこの扱いは非常にこたえるらしく、引退を判断する決め手となることが多いようです。

 引退後の道もそこそこ用意されており、希望すれば会社に残ってレフェリー、スタッフ、マネージャーに転進することも出来ます(収入は相当下がりますが)。あとはSPZフィーバー(グッズショップ)の店長になって知名度を生かしてチケットを売りさばく道もあります。プロレスの世界から完全に断ち切りたいと考える方は会社を離れて、支援者のつてで再就職し第2の人生を歩き出します。よくあるパターンはスポーツジムのインストラクター。ルックスのいい選手はタレントに転進できるので有利です(笑)。

しかし自分の場合、タッグマッチでの立ち回りが良かったのか(笑)なかなかタッグの一線からは離してもらえず、人気もあったのでギャラの減少をグッズ売上分である程度カバーできていましたし、父親から相続した大株主だったのでなかなか現役生活に終わりを告げることはできませんでした。それでも腰の痛みはいかんともしがたく、シリーズ欠場と再出場を繰り返すようになりました。

 いったい私はいつまで頑張ればいいのか、そう思いながら身体のケアをして、病院に通い、とりあえずリングに上がれるコンディションになって復帰し、二、三ヶ月でまた壊れるという恐ろしいサイクルに入ってきました。信頼関係の出来ている後輩選手とやるのはまだしも、あまりあたった事のない力自慢の外国人選手とやるときは正直怖くなってきました。まだやれる状態、力を残したまま身を引くのも正解。ボロボロになってもライセンスを手放さないのも正解。女子レスラーの引き際は非常に難しいのです。

デビュー10周年を迎える頃、ひとりの大物新人が入ってきました。スポーツ万能、上背もあって筋肉もついている。後にSPZ世界王者、VG世界王者になられるサンダー龍子選手です。身体能力だけでなく志も非常に強い選手で、入門時から「億のお金を稼げるようになります」という野望を語っていました。

彼女のデビュー戦の相手を務めたのですが、動きはともかく力がそうとう強い。ボディスラムでたたきつけられたとき、腰に電気が走りました。心が折れそうになりましたがなんとかシャイニングウィザードを決めて、勝つことができました。(もっとも半年くらいですぐ追い越されてしまいましたが)
このあたりから腰が爆発するような痛みに襲われ、いよいよ忍び寄るものの足音が聞こえてきたと感じました。

2015年11月19日 (木)

歩いてきた道 19

◆歩いてきた道(19)応援力のおかげで

デビュー9年目の後半に入ると、私の活躍の場はタッグ戦線に絞られてきました。若い選手はタッグマッチになると自分が目立とう、自分がフォールやギブアップを取ろうと前面に出てしまいがちですが、ある程度ダメージを負ったらパートナーにつなぐ「引きどころ」も大事です。そういう意味で私はタッグマッチ向きのレスラーだったと感じています。白石なぎささんがブレイクするときにタッグパートナーに選ばれ、世界タッグ王者のベルトを巻くことが出来ました。もっとも試合の7割がたは白石さんに任せ、私は彼女の息が整うまでのつなぎに徹しました。それがいい方向に作用したのでしょう。

 年明けに最後のSPZシングル王座挑戦が組まれ、ジャスティスえちご選手に挑みましたが、彼女の方が修羅場をかいくぐった自信を持っていて、試合のほとんどを支配され、17分ぐらいであっさり負けてしまいました。これ以降ではタイトル戦線はタッグマッチのみ絡むことになりました。

入社10年目に入り、25歳を迎えようかという頃になると腰のほかに両膝、首と悪いところが増えてきて、満身創痍状態になってきました。さすがに会社サイドが配慮してくれたのか、大会場のビッグマッチでは休憩前、前半の試合に回されることも多くなりました。しかしファンの皆さんの応援は全盛期、SPZ世界王者の頃のときよりはるかに多かったことを覚えています。

ブタもおだてれば木に登るではありませんが、ファンの方からいただく応援力のおかげで気力、体力が尽きても少しは闘うことができる。これには自分でも驚きました。
 トップグループを外れてから、ギャラも減額されたのですが(SPZはそういう部分が実にシビアです)逆に個人グッズの売上は増えて、グッズ売上の中からパーセンテージで選手本人にも支給されるので、総収入は全盛期とさほど変わらなかったのは有難かったです。

このころの自分の持ちネタが、試合終盤の乱戦になったときの分断作戦です。タッグパートナーに勝負の行く手を託し、自分は相手チームの片方に絡み付いて、そのままごろごろと回転しながら相手もろともリング下に転落し、そのあとは相手の足にしがみついて離さない。相手は「この、この、離せ」と頭をぽかぽか殴ってくるのですが、そうはさせじととにかくしがみつく。そうこうしている間にタッグパートナーが大技を決めて3カウントを取って試合を終らせる。ベテランのズルイ手です(笑)

10年目の夏、SPZクライマックス8年連続出場という偉業?を果たしたのですが、もはやシングルマッチでは試合を作れず、後輩の中村(真帆)さん、ナラタさんにも破れ、けっきょく2勝5敗に終わり、5年間守ったシード権を手放しました。それでもよく2つ勝てたな、というのが自分の率直な感想でした。

その頃からプロレスで受けた痛みをお酒でまぎらわすようになりました。最初の一杯はビールですが、あとは赤ワインとかウイスキーの水割りとかを飲むようになりました。完全にダメ人間コースです(笑)お酒を飲むと筋肉が硬くなるので運動生理学的には良くないらしいいのですが、痛み止めを飲みすぎて胃をやられるよりはいいでしょう。

とはいっても巡業中は後輩や支援者さんとの飲み会で、ひとりで飲むときは戸塚の「よこ川」でグラスを傾けていました。でもこの縁で頼れる人と出会ってしまったのですから、人生何が幸いするかわからないものです。「よこ川」の常連で、マスターに紹介された、5歳年上のIT企業に勤める会社員、西敬一さん。引退間際にこの人と結婚することになります。

2015年11月18日 (水)

歩いてきた道 18

◆歩いてきた道(18)父の死、佐久間さんの引退

22歳になり、私はデビュー8年目に入り、そろそろ「ベテラン選手」と呼ばれるようになって来ました。8年目の最初に私は右手首を痛め、旗揚げ40周年記念シリーズは最終戦のみ限定出場し、5月シリーズを全休しました。そのあとのSPZクライマックスも8点の4位に終わり、シード権こそ保ったものの賞品を頂くことはできませんでした。

そのころもSPZ屈指の技巧派ということで、永原選手と組んで世界タッグ、ナラタ選手と組んであばしりタッグタイトルマッチを闘い、時折はローテーションどおりSPZシングルのベルトにも挑戦していました。シングルマッチはごまかしが効かないのですが、タッグマッチはパートナーが闘っているときに息を整えられるので、立ち回りが良いといい結果が出やすいのです。

1年ほどそういうハードな戦いを続けましたが、入社9年目に入る頃、いろいろと心労が積み重なりました。レスラーの職業病である腰痛の発症。選手の誰もが通る道であり、私も例外ではなく腰の痛みに襲われました。試合前は痛み止めを飲んでいますし、試合中は脳内から何かが出ているのであまり痛みを感じないのですが、練習中は痛くてたまらず、本番にピークを持っていくために、練習量は低下せざるを得ませんでした。

それでも5月シリーズの地方大会で、ダークスターカオス選手とのタイトル戦を、9割がた攻め込まれたものの大逆転のSTFでものにして、EWA世界王座のベルトを巻きました。

しかしその翌日、暗転する知らせが入ってきました。父親が亡くなりました。入退院を繰り返していたのですが、死期を悟ったのか母親の手引きで病院を脱走し、特急列車で信州へ行き、「最後に見たかった景色」ということでタクシーで上高地へ向かい、河童橋から穂高連峰の景色を眺めた直後に、長い眠りについたと母親から後で聞きました。
訃報は熊本の宿舎で聞きましたが、次の日は鹿児島でタイトルマッチが組まれていたので欠場は出来ませんでした。結局鹿児島のタイトル戦で敗れた後、翌朝一番の飛行機で帰京し、川崎の自宅でお別れを済ませた後すぐ羽田に取って返し、興行のある宮崎へ向かいました。

そのシリーズはお世話になった1期先輩の佐久間理沙子さんの引退シリーズでもありました。最終戦の横浜では佐久間さんの引退試合の相手を務めました。ほとんど練習ができていなかったこともあり、最終戦でも佐久間さんにノーザンライトスープレックスでやられてしまいました。

最終戦のあと、父親の「お別れ会」が執り行われましたが、頭を悩ませたのがSPZ株の相続でした。詳しい経緯は省きますが、父親が持っていたSPZ株の50%を母親と半分ずつ相続したため、必然的に自分は大株主になりました。これの影響で選手生活の晩年、引退を切り出しにくくなりました。

結局、EWAのベルトはその年の7月にジュディ・コーディ選手にDDTで敗れて手放しました。その翌月、SPZクライマックスに出たのですが、気がつけば私が出場選手の最年長。まわりはみんな年下ばかり。それでもかろうじて4勝3敗、勝ち点8をかき集めてシード権を守り、フローラ小川健在を印象付けることが出来ました。

この頃はもう若くなく、選手としての生活が曲がり角にさしかかっているのを自覚せざるを得なくなりました。とはいっても馬力に頼るファイトスタイルではないので、多少のボロは技術でカバーできていました。それでも試合前にテーピングを施す箇所が増え、テープの消費量が加速度的に増えていきました。

2015年11月17日 (火)

歩いてきた道 17

◆歩いてきた道(17)トップグループの闘い

大人になって、練習後のビール、試合後のビールにはまってしまい、それがいい方向に作用したのか、入社6年目の冬に山本さんに勝ってSPZ世界王者に返り咲きました。このときは山本さんが大振りのラリアットを狙っていたのをうまく身をかがめてかわし、山本さんがバランスを崩したのを見て、とっさに横殴り気味にラリアットを入れて倒し、そのまま押さえ込んだら向こうのキックアウト(フォールを返す動作)が一瞬遅れ、3カウントが入りました。約1年半ぶりに団体最強の称号であるベルトを巻くことができて、しかも力は落ちていたものの(自分にとっては難敵だった)山本さんを倒せて嬉しかったことを今でも覚えています。

しかし、せっかく返り咲いたにもかかわらず、翌月のさいたま大会で後輩のえちご選手に敗れてベルトを手放しました。しかも最後は蹴りをまともに食らって失神してしまい、担架で運ばれて病院送りというおまけつき。

このあたりで有望な後輩がどんどん入ってきます。レスリングセンス抜群のジャンヌ永原さん、細身の体からは想像もつかない怪力を秘めた白石なぎささん、遠くない将来、SPZでメインを張る選手が続々入門してきました。そしてグリズリー山本さんはヒザの怪我が深刻化し、長期休養に入りました。時代の移り変わりは激しい、と感じながらファイトを続けるうちに、プライベートでも深刻な問題が起こりました。

父親が病に倒れたのです。SPZ取締役としての父親は豪放磊落な性格で、私にもよく「倒れるときは前のめりだ」と言っており、70代に入ってもSPZのファウンダーという肩書きで会社に席を持っていましたが、カラオケバーで歌った直後に心臓疾患で倒れました。さいわい私や母が一緒でしたので、すぐ救急病院に運ぶことができ一命は取り留めましたが、そのあとめっきり老け込みました。

 入社7年目のSPZクライマックスもなんとか勝ち点10で2位に食い込み、トップグループとしての存在感を示すことができました。そのあと、11月の横浜大会に頂いたチャンスで佐久間さんにSTFで勝利し、レスラーキャリアで最後となる、3度目のSPZ世界王者戴冠を果たしました。しかし2ヵ月後、新日本ドーム大会ではまたしても後輩のジャスティスえちご選手の蹴りをもらってしまって担架送りになり、ベルトを手放してしまいました。

 そのころ有望な後輩で、ナラタさんという忍者ギミックの選手が入門してきました。身体のバネ、跳躍力のある選手でしたのでコーチ役に任命され、タッグマッチの動き方やグラウンドでの対処の仕方をレクチャーしました。そして2人であばしりタッグ王座(SPZの認定する2本目のタッグ選手権ベルト)に挑戦し、相手はそこそこの外人チームだったのですが、なんとか勝利してあばしり王者になりました。このベルトは一時的には何度か手放すことがあったものの、引退する直前までナラタさんと組んで保持しました。

 そのころ、SPZは団体創立40周年を迎えました。横浜ベイサイドホテルの宴会場を借り切って、盛大なパーティーを行いました。SPZの創業者である父親も無理して車椅子で駆けつけ、乾杯の音頭を取ったのですが、あれほど好きだった高級ホテルのスモークサーモンを一皿しか手をつけなかったのです。父親の人生の最終到達点が迫っているのをそのとき直感しました。

2015年11月16日 (月)

歩いてきた道 16

◆歩いてきた道(16)キャリアの後半

話は前後しますが、SPZでは入社5年目になると「年長組」のカテゴリーに入り、合宿所を退寮させられます。

「もう、いい大人でしょ」ということで道場近くの賃貸マンションを紹介され、一人暮らしをしながら日々道場に通う生活をはじめることになります。若くてかわいい女の子がしばきあうのが売りのSPZですから、肩たたきはもうこの段階から始まっているわけです。

合宿所は休みの日でも18時が門限ですが、通い待遇の選手は門限はなく、調整もある程度は各人の自由に任されますので、何をしようが基本的に自由。自分はしっかり家電一式を買って、自炊中心で、基本的に(と、言っておきます)規則正しく暮らしていましたが、選手の中には夜遊びを覚えてしまって、練習をおろそかにされる方もいます。  

引退後のことを考えて、クルマの免許を取ったのもこの時期です。シリーズオフの休みをうまく使って、3ヶ月かかって取りました。車の免許を取ると、首都圏の3会場(東京、神奈川、埼玉)に限りマイカーでの会場入りが会社から許可されます。私も小型車を買い、何回かクルマで会場入りしてみましたが、私の場合試合でこっぴどくやられてしまうことが多く、帰りがしんどいので、せっかく買った車も合宿所までの往復にとどめ、今まで通り首都圏の試合でも、基本的には引退するまで移動バスで会場入りをしました。

さて、SPZ世界王者のベルトは失ったものの、私は山本さん、葛城さん、佐久間さんと並んで「SPZの4強」とファンの方から呼ばれるようになりました。入社6年目にはいってからも何度かベルト再挑戦のチャンスをいただきましたが、いずれもチャンスをものにすることができませんでした。

そうこうしているうちに、力のある後輩はどんどん上がってきてトップグループに迫ってきます。2期下に田中さん(ジャスティスえちご)という空手上がりの後輩選手がいたのですが、空手出身者らしくグラウンドが不得意だったので、一緒にスパーリングをして技術を盗まれ、いや伝授しました。蹴りの威力がすごいものがあった人でしたので、39年目のSPZクライマックスの公式戦では引き分けに持ち込まれてしまい、ああ追われる立場になったんだなと感じました。この年のSPZクライマックス公式戦では、初めて山本さんにSTFで勝ったのですが、最終戦で佐久間さんに大技を食らって敗北し、勝ち点11の2位に終りました。これがSPZクライマックスでの自己ベストでした。

しかしその年の10月、最終戦でSPZ世界王者挑戦が決まっていたのですが、その前の静岡で組まれたジャスティスえちごさんと対戦し、このときは蹴りをまともに食らってフォールを取られてしまいました。面倒を見た後輩から試合後(当然マイクアピールなのですが)「三流レスラーフローラ小川!」などと言われてしまいました。最終戦のタイトルマッチも山本さんに敗北し、ベルト奪回はなりませんでした。 

レスラーとしての実力・商品価値のピークに差し掛かっているのに結果を出せない悔しさ。 このころ自分はお酒を覚えました。戸塚道場の近くに「よこ川」という安くて美味しい日本料理店があって、そこがSPZ年長組選手やスタッフさんの行きつけになっていました。そこで練習で汗をかいた後のビールにはまってしまったのです。ギャラもだいぶ上がってそれなりに頂いていたので、外食に抵抗がなくなってきたわけです。老いた父親を連れて入り、ビールを注ぎあったとき「花ちゃんもそういうトシになったか」と複雑な顔で言われました。

2015年11月15日 (日)

歩いてきた道15

◆歩いてきた道(15)ついに頂点へ

1期上の佐久間理沙子さんは、入門直後から自分の面倒を見ていただいた恩人です。しかしひとたびリングに上がるや頭から落とす、受け切るのが難しい大技を連発してくる、最強クラスの選手で、これまで自分は佐久間さんに勝った事はありませんでした。まあなるようにしかならないと考え、スキを見てSTFを仕掛けよう、ぐらいのことしか考えないで長野大会、SPZタイトル戦のリングへ向かいました。

15分頃、少し佐久間さんの息が乱れてきたな、と感じたので、組み合うと見せかけて首投げで転がし、すかさずSTFに捕らえました。過去の対戦でもこういう体制にできたことはありましたが、佐久間さんは身体をよじって振りほどくのがうまく、長時間きめさせてもらえませんでした。しかしこの日は足のフックがうまくはいったのか、佐久間さんがどうしても抜けられず、かなりの時間をかけてロープへ這って逃げて、ようやくブレイクとなりました。私も渾身の力で攻めたので苦しかったのですが、佐久間さんの様子がおかしく倒れたままなかなか起き上がれません。

「休んじゃダメ、一気に」放送席でゲスト解説をしていた母親が叫びました。自分もそこは理解していたので、足は震えていましたがコーナー最上段に上がって、ここぞのときの大技、ムーンサルトプレスを決めました。一度は返されましたが、明らかに佐久間さんの様子がおかしかったので、次のチャンスでもう一度ムーンサルトプレスを決めました。

私は体重が(他の選手と比べて)軽いので、返されるかなと思いましたが、そのまま3カウントが入ってしまいました。
 そのあとはもう信じられない出来事。レフェリーの神田さんにチャンピオンベルトを巻いてもらい記念撮影。自分はチャンピオンベルトには手が届かないだろうなと思っていたので、いざなってみると驚いたというか興奮したというか・・・。

 デビュー前の厳しい練習、3分でやられたデビュー戦、新人の頃の連敗、自分の地位を少しずつ上げていった若手時代、いろいろな思い出がよぎり、涙が止まりませんでした。 次の日の埼玉大会では本気でつぶしにかかってきた佐久間さんに敗れ、WWCAのベルトは手放すことになりましたが、今までの苦労が実を結びました。

 当時のSPZ本社ビルの会議室と廊下に、歴代チャンピオンの写真が額に入れられて飾ってあり、自分のもさっそく飾られました。もう笑うしかなかったです。

 さて、ベルトを奪取して団体最強の選手?になったからには当然みんなから狙われる立場になります。翌月シリーズで組まれた初防衛戦の相手は葛城(早苗)さん。1回くらいはなんとしても防衛したい。まぐれっていわれないために。そう思って懸命にファイトし、ムーンサルトプレスでなんとか勝つことができ、ベルトを守りました。

しかしその翌月のSPZクライマックスでは山本さん、佐久間さんに敗れて3位に終わりました。やはり規格外のパワーを持つ(グリズリー)山本さんには勝てない。その勢いのまま9月のさいたま大会で山本さんに掌底で殴り倒されて3カウントを奪われ、3ヶ月間守ったSPZ世界王座から転落しました。

 しかし短い間でしたが団体のトップに立ったという経験は非常に貴重で、地方のメインイベントの6人タッグマッチでも自分のテーマ曲が流れ、いちばん後に名前をコールされるなど、ああ自分はここまで上がってきたんだ、という達成感があったのは確かでした。

2015年11月14日 (土)

歩いてきた道 14

◆歩いてきた道(14)気がつけばトップどころ

 入社4年目、19歳になる頃のSPZクライマックスのときに、よく面倒を見てもらった霧島レイラ先輩と藤原和美先輩が引退を表明されました。これで当時のSPZ社内で自分より格上といわれていたのが葛城(早苗)さん、佐久間理沙子さん、(グリズリー)山本さんの3人となり、気がつけば「団体実力4番手」的なポジションにいました。しかしSPZクライマックスではその3人から白星を挙げることはできませんでした。それでも引退間際ながら霧島さんからドラゴンスリーパーでギブアップを取り、最終戦では藤原さんにも勝って、4勝3敗でシード権を取ることができました。

 その実績が評価されたのか、その年の10月の新日本ドームで山本さんの持つSPZ世界王者のベルトへ挑戦が決まりました。馬力にものを言わせて攻めてくるタイプで、最も苦手ではあるのですが、やるだけはやろうと考えてリングに上がりました。が、結果は10分少々であえなく玉砕しました。そのあと山本さんに「三流レスラーの子は三流なんだよ!」とマイクで言われました。自分はともかく母親のことまで持ち出すとは許し難い。そう思いましたが、ただそのとき私は倒れ伏すのみでした。

どうしたら山本さんに勝てるのか。佐久間さんのように頭から落とす大技を複数持っているわけではないし、私はグラウンドでスキをうかがう闘い方なので分が悪い。けっきょく山本さんがヒザを悪くするまで勝つことは出来ませんでした。
 はじめてシングルのベルトを巻いたのが、入社5年目の春、札幌のメインで、当時最強外国人といわれていたダークスターカオス選手からWWCA世界王者のベルトを奪取しました。

アメリカ遠征時に何回か対戦していて、山本さんをしのぐパワーがあるけど、荒削りな面がなきにしもあらずという選手でしたので、掌底を顔面に入れたら冷静さを欠いて暴れだしたので、そこを突いてSTFに捕らえて、渾身の力でしめ上げました。ダークスターカオス選手も超一流なので、振りほどかれるかなと思っていたのですが、なんとギブアップの意思表示(タップ)をされました。

これでまさかの初シングルベルト。WWCAのベルトはSPZより歴史のあるアメリカ有力団体のベルトであり、日本人でこれを巻いたのも数えるほどらしいので、涙が出るほど嬉しかったのを覚えています。
「まぐれの部類だ」と吉田さん(入社時の社長)には言われましたが、「プロレスは強い選手がそのまま勝つとは限らないものだから」と中森社長に言っていただき、自分もこれで「一流レスラー」の中に入ることが出来たか、と感慨深いものがありました。

さっそくその翌月、ベルト防衛戦のためにWWCAから渡米の要請があり、2週間ほどテキサス・フロリダを中心にサーキットを行いました。タイトルマッチも何試合か組まれましたが、前王者のカオス選手はスケジュールの都合で参戦されなかったので、地元の強豪選手との対戦になり、やられながらもなんとか丸め込んで防衛に成功、というパターンで乗り切り、ベルトを守って帰国の途につきました。

 この実績が認められたのか、6月シリーズでSPZ王者の佐久間理沙子さんとタイトルマッチの2連戦が組まれました。先ず長野大会で私が佐久間さんのSPZベルトに挑戦し、最終戦のさいたま大会では、逆に佐久間さんが私の持つWWCAベルトに挑戦することになりました。こんな形でのタイトルマッチの連戦はいままでに例がないことでしたので、非常に話題になりました。

2015年11月13日 (金)

歩いてきた道 13

歩いてきた道(13)アメリカ遠征でひとまわり大きくなる

SPZの年間最大のシリーズとして、毎年8月に「SPZクライマックス」というシングルリーグ戦があります。若手選手がこのリーグ戦に出るには「予選会」を通過しなければならないのですが、入社3年目の夏、石川さん、早瀬さんを連続で破り、SPZクライマックス出場を決めました。このときは自分も団体の中堅まで来たか、という思いを強くしました。

7月シリーズの最終戦メインイベント後で、翌月のリーグ戦をもりあげるために出場者が決意をリング上でマイクアピールせよ、と吉田社長に言われました。失敗したな、と思ったのですが、マイクアピールの練習はしていなかったので、たどたどしく「その日その日で出来るファイトを精一杯やって、結果を残したいです」という趣旨のことを話しましたらお客さんに笑われました(笑)。そのあと吉田社長が「フローラ小川が玉砕するであろうSPZクライマックスをお見逃しなく」と追い打ち。で、初めて出たリーグ戦の結果は藤原(和美)さんに勝てただけ、1勝6敗で終えました。

 まだまだ上位の壁は厚いことをそのとき痛感しました。このままではダメだと考えた自分は、海外遠征に出ることにしました。まず力押しで攻めこまれたときに対応できない。そのためには体格とパワーで上を行く選手ばかりのアメリカマットで対策を身につけるのが上策だと考えました。

 私は英語が得意ではなかったので、会社からマネージャーさんが同行することになりました。現地でのリングネームは最初に参戦させていただいたロサンゼルスのプロモーターさんが適当に考えたのか「ザル・ソバ・シブヤ」と名づけられました。

 半年間アメリカに滞在して、いくつかのテリトリーを回りましたので、いろいろなタイプの相手と対戦させてもらって、大いに勉強になりました。英語が読めず、対戦相手の情報が事前に取れないので、実際に組み合ってみて、臨機応変に技を繰り出したり受けたりしていって、対応力を上げていました。また、SPZではグラウンド主体で闘っていましたが、現地のお客さんにはあまり受けなかったので、意識して飛んだり跳ねたりの動きや、キックなどの打撃技を多く繰り出すよう心がけました。

遠征中の12月、日本にいる1期上の佐久間理沙子さんがSPZ世界王者のベルトを奪取したという知らせが入ってきました。自分のことのように嬉しかった反面、あと1・2年で自分もその位置まで上がることができるか、それとも中堅どころの選手で終ってしまうか、ここが正念場と感じたものです。

 デビュー4年目にはいる頃に、日本に凱旋帰国しました。お土産として母親に大量のミントチョコレートを買って帰り、喜んでもらったのを覚えています。帰ってきてすぐ、大ベテランの霧島レイラさんとシングルで対戦しましたが、重たい攻めをかろうじてしのいで、なんとか30分時間切れ引き分けに持ち込むことができました。その何日か後に霧島さんに言われました。「あとちょっと頑張れば、トップグループいけるよ。」

 SPZでのトップグループとは、SPZ世界王者ベルトの挑戦者ローテーションに入っていることを指します。体格もパワーもない自分がそこまで行けるとは思ってもいませんでしたが、行ける所までは行ってみようと思ったものです。その年のSPZクライマックスにも予選会を全部勝って本大会出場を果たしました。ここで4位以内に入り、来年も出場できるシード権確保を心の中で目標に掲げました。

2015年11月12日 (木)

歩いてきた道 12

歩いてきた道(12)若手の有望株へ
けっきょく、私のシングル初勝利は入社2年目になって後輩の(ミネルヴァ)石川さんのデビュー戦の相手を務め、なんとか相手の息の切れるころあいを見計らって、スリーパーホールドでしめあげてギブアップを取りました。それでも先輩や外国人選手を「追い越す」勝利はなかなか手に入りませんでした。

入社2年目に入り、多くの先輩方やコーチにも、「もう新人ではありませんので、試合を作れるようになってください」と言われました。どうしたら上の人に勝てるのだろうか。自分なりに考えました。単純な力勝負ではまず勝てないので、とにかくグラウンドレスリングで相手を消耗させて勝機を見出すという「自分のファイトスタイル」を確立しようと考えました。あとは自分のフィニッシュ技として、母親の得意技だったSTFを習得しようと考え、スパーリングで練習を重ね、実戦で使い出しました。とはいえなかなかギブアップが取れない。思い切って、川崎の実家に帰った際に母親に相談しました。

 母親からは、「タッグマッチでとりあえず出しておくSTF」と「勝負どころで勝ちに行くSTF」の使い分けを伝授されました。勝ちに行くときのSTFは、右手のリストバンドの部分で、相手の鼻をつぶすように絞めるのがコツといわれました。あとは絶対に負けられない試合のときは、リストバンドの中に薄い金属片を入れておくとか(試合前のレフェリーチェックは形だけのことが多いので)少々ダーティな手も教わりました。その甲斐あって、入社2年目の夏ころにはシングルマッチでも弱い外国人選手であれば勝てる日が出てきました。

入社2年目の夏、雲の上の人だったマイティ祐希子さんが引退されました。引退シリーズでは何度か地方でタッグを組ませていただきましたが、引退前でも力は凄かったです。もっとも祐希子さんは「もうトップは狙えないので身を引く」と話されていました。

マイティ祐希子さんに代わって団体トップに躍り出たのがグリズリー山本さん。普段は物静かな方なんですが、リングに上がると性格が変わり、ものすごい力まかせのラフファイトを展開してくる方で、何度も叩きのめされました。でもそういった規格外、化け物みたいなの人とやると、普通の選手相手でも何とかなるかな、と思ったりしますから経験は宝です。入社2年目の終わり頃には新日本ドームのセミファイナルに起用されて、霧島レイラさんとシングルで闘いました。たしか10分持たずラリアットでやられてしまった記憶があるのですが、貴重な経験をさせていただきました。そのころはデビュー時と比べて体重も10kg以上増え、素人に毛が生えた程度のレスラーから、「若手の有望株」に代わっていけたのかなと思いました。

 この頃になると、プロレスデビューに反対していた母親(小川ひかる)も何も言わなくなりました。シリーズが終ると3日間の休みがあり、そのときは川崎の実家に一時帰宅が許されました。久しぶりに母親と一緒にお風呂に入ったのですが、いっぱしのレスラーの体つきになってきたのを察したのか、「あなたの気の済むまでやりなさい」と言われるようになりました。
入社3年目の春、初めて大先輩の八島さんに勝てました。とはいえスリーパーホールドがうまいこと入って、八島さんが我慢できずタップしたというラッキーな面が強い試合でした。またこのシリーズでは、佐久間さんと組んで世界タッグのベルトにも初めて挑戦し、負けはしたものの山本さん、中江さんといい試合をすることができました。

2015年11月11日 (水)

歩いてきた道 11

歩いてきた道(11)経験を積む

 SPZで新人が大成するかどうかの物差しとして、デビュー戦で「何分もつか」というのがひとつの目安なのではないかという向きがあります。先輩相手に10分以上粘れれば優秀、6分粘れればまずまず。6分未満は三流どまり。(もっとも、相手となる先輩レスラーの地力とか優しさとかの要因の方が大きいと思うのですが)

となると3分しかリングに立っていられなかった私は三流以下ということになります。そんな私がSPZマットでやっていけるのか。大いに悩みましたが、できるところからやっていくしかないと考え、日々練習に励みました。まず相手の攻めを受けるための強靭な身体。そしてダメージを最小限に抑える受け身。あと先輩から度々言われたのが「人の試合をよく見ること」。自分の出番の後、後半の試合はよほどのことがない限り、セコンドについて、リング下から先輩方の動きを見続けました。とっさの返し技の入り方とか、一瞬の機転とかに気づくヒントが先輩方、外国人選手の方の動きにはありました。

 SPZの運営も気を使ったのか、2シリーズ目はシングルマッチではなく、タッグマッチでの起用となりました。当時前座の華として活躍されていた早瀬(葵)さん、藤島(瞳)さん、サキュバス真鍋さんとよく対戦しました。アイドルレスラーとはいえ、SPZで数年もまれた方々なので、一撃一撃の攻めがとても重くて苦戦を重ねました。

 あとは道場内外での特訓。お嬢様プロレス団体とはいえその内情はそこそこ体育会系で「苦しい経験を積めば積むほど、【負けるはずがない】というプライドが生まれる」という考え方が根強く、団体最弱・素人同然の私はよく特訓を課せられました。

先輩レスラー数人にかわるがわる投げられる受け身100本とか、砂の入ったメディシンボールを四方八方からぶつけられる特訓はまだましな方で、心肺機能を鍛えるためと称してプールで1km(25メートルプールを40往復)泳ぐまで出られないとか、エアロビクスをぶっ続けで1時間とか、富士登山をさせられてかつ山頂で受け身10セットとか、体重増のためにディナーバイキングに連れてかれてローストビーフ20皿とか、今思い出してもぞっとします。でもそういった特訓を重ねることで、先輩方との力の差が多少なりとも縮まったのかもしれません。

 しかし、デビューから1年間はシングルマッチでまったく勝てませんでした。同期の選手もいないので、必然的にシングルで当たるのは先輩選手か外国人選手。途方も無い連敗を続ける中でも、「簡単にやられるわけにはいかない、動けなくなるまでは抵抗しよう」と考えてリングに上がり続け、藤島さんや早瀬さん相手にはある程度、試合を作れるようになってきました。その努力が認められたのか、ただ単にSPZが集客のネタにしたかったのかはわかりませんでしたが、デビュー8ヶ月で、暮れのタッグリーグに佐久間さんのパートナーとして抜擢されました。

このときはハリケーン神田さんの裏拳で意識を無くしたりとか、マイティ祐希子さんとはじめて対戦してムーンサルト、バックドロップを食らってしまったりとか、それこそ死ぬんじゃないかっていう思いをしました。なかでも印象に残っているのが、福岡での試合で、メインで(グリズリー)山本さん、中江さんとあたって、相手チームの分断作戦(弱いほうをリング上に孤立させてたうえで集中的に攻撃して潰すタッグマッチの戦術)にはまって、中江(里奈)さんの重たいチョップ一発で倒され、がっちりと押さえ込まれてフォールを返せませんでした。「メインイベントであれはまずいよ」と先輩から小言を言われました。

2015年11月10日 (火)

歩いてきた道 10

歩いてきた道(10)甘くなかったデビュー戦

私のデビュー戦は手元の資料によれば、2042年4月21日、相手は9年先輩のハリケーン神田さんでした。

その日は会場入り直後にデビューが言い渡されて、どうしようかと思いました。夕方5時半近くなると「開場しまーす」とスタッフさんが叫びます。これが合図で私たち選手は控え室に引き揚げて試合開始を待つのですが、第1試合に登場する自分はこの間にリングコスチュームに着替えて、リングシューズの紐を通すわけです。指先が震えてしまって、シューズの紐がうまく結べず、佐久間さんに手伝ってもらったのを覚えています。

そしてあっという間に試合開始の6時半になり、リングアナウンサーさんが前説を始めます。それが終るとゴングが5回鳴らされるので、そうしたらリングまで全力疾走しろ、と指示されていました。
「さあ行って来い!」ベテランの八島さんに叱咤されたあと、リングへ走りました。そのあと神田さんの入場テーマ曲が流れ、神田さんがおっとりと入場してくるのですが、目が鋭い。いつもの神田さんじゃない。やる前から雰囲気に呑まれてしまいました。
「青コーナー、神奈川県川崎市出身、フローラ、小川ー」

リングアナウンサーさんにコールされたのであわてて一礼しました。そのあと神田さんがコールされ、いよいよ試合開始のゴングが鳴ってしまいました。しばらくどうしたらいいかわからず、その場に立ちつくしていました。察した神田さんの方から組み付いてきました。ぐっと押さえつけられる感じ。なんて力。神田さんも9年間やってこられた方なので、組み合った瞬間に「この程度か」と判断されたようで、ちょっと間をおいた後、組み付いたまま自分をロープ際まで押し込みました。

「ブレイクッ」とレフェリーの(イージス)中森さんが命じます。一度はクリーンに分かれてもらったのですが、2回目に押し込まれたとき、分かれるとみせかけて、胸元へ鋭いチョップを浴びて、この一発で息が詰まってしまい、へなへなと崩れ落ちました。

「オラ、立て」そう神田さんが言いながら自分を立たせて、今度は側頭部にバシッと掌底を撃ち込まれました。神田さんは打撃が得意とされていたので、こんどは痛いなんてものじゃなく、何がなんだかわからなくなってしまいました。

ふがいないことに私はこれでマットに倒れこんでしまいました。KO負けを宣告されてもおかしくない状況だったのですが、それでは盛り上がらないと判断したのか、神田さんは弱りきった私を引きずり起こして、腰に腕を回してきました。

アーッと思ったときには高々と抱え上げられ、そのあと力まかせに(もちろんある程度手加減されていたそうなのですが)パワーボムで叩きつけられました。ここで自分は意識を失ってしまい、気がついたら控え室に横になっていました。
あとで試合の映像を見ましたが、パワーボムを食ってそのまま3カウントを奪われ、3分16秒で私は負けました。試合後も意識を失ったまま起き上がれなかったので、レフェリーが先輩選手を何人か呼び、私をリングから下ろし、担いだまま花道を下がっていきました。その日は「自力で花道を帰れないくらいこっぴどくやられたのだから」と、セコンド業務を免除され、控え室で1時間くらい横になっていました。そのあと控え室にいた先輩レスラー全員に「おめでとう、これであなたもレスラーの仲間入りだ」と祝福されましたが、私はこの世界でやっていけるのか不安でなりませんでした。

2015年11月 9日 (月)

歩いてきた道 9

歩いてきた道(9)セコンドで見たもの

この連載は1ヶ月間の期間をいただいています。9回目でまだデビュー戦にならないのかと、せっかちな読者の方からはお叱りを受けかねないのですが、プロレス界のカルチャーショックが大きかったのでセコンド回りのことを書かせてください。

シリーズ緒戦の札幌大会ではセコンド業務を担当しました。その中で特に印象に残っているのがメインイベントのタイトルマッチです。
当時のチャンピオンが6期先輩のマイティ祐希子さんで、札幌大会ではマイティ祐希子さんの保持するベルトに霧島レイラさんが挑戦するというものでした。当時の私にとっては両方ともはるか雲の上の人で、合同練習のときに挨拶させていただいたくらいでした。
マイティ祐希子さんがガウンを脱いで私に手渡したのですが、チャンピオンは身体のつくりからして違いました。戦うためだけに作られた極致というかなんていうか・・・私とは線の太さがぜんぜん違いました。

コールの際にはすごい量の紙テープが投げ込まれました。片付けるのも一苦労。
50年以上も昔の話ですが、なんというか熊と象の対決を見ているようで興奮したのを覚えています。お互い力押しで勝負を挑み、懸命に攻めあい、凌ぎあっていました。
お互いの間に「この人ならここまでやっても大丈夫、受けてくれる」という信頼関係、暗黙の了解があることなんて思いもよりませんでした。確かそのときの試合はカウンターの膝蹴りかなんかでマイティ祐希子さんが勝ち、チャンピオンベルトの防衛に成功されました。

驚いたのは、マイティ祐希子選手も相当のダメージを負ったはずなのに、試合後ちゃんとベルトを巻いてトロフィーを掲げて、勝ち名乗りを受けてからリングを後にし、花道を引き揚げるまでは笑顔を絶やさないんですね。控え室に到着してから、ぶっ倒れてゼエゼエと荒い息をついていました。霧島レイラさんの力攻めを受けきったのでダメージはかなりのものがあったのでしょう。若手選手が何人かが介抱します。リングシューズの紐を解く人、コップに水を注いでゆっくりと飲ませる人、タオルで身体の汗を拭く人・・・メインイベントで闘うことはここまで「大仕事」なのかと感じました。

でもそんな状態も時間にすると30分くらいで、負傷箇所のケアを済ませることには息も収まっていて、記者さんの質問に答える体力も戻ってきて、「じゃあちょっとシャワーへ」って感じになるわけです。まさに化け物だと感じました。

その日は昨日同様、札幌のホテルに泊まって、次の日は空路で仙台へ移動して、その次の日に仙台で大会。そのあと名古屋、大阪、広島、博多と新幹線で移動しながらの4連戦がありましたが、なかなか自分の試合は組まれませんでした。

博多大会を終えて、1日のオフがあって新幹線で京都まで移動して、その日は京都郊外のホテルに泊りました。シリーズ第7戦の京都はそれまでのドームクラスの会場とくらべるとひとまわり小さい体育館でした。12時過ぎに会場入りしたのですが、控え室に貼られた今日の対戦カードを見ると、一番上に

「1.ハリケーン神田 1/30 フローラ小川」

って書いてあったんです。そのときは頭が真っ白になりました。
そのあと吉田社長に呼ばれてデビューの言い渡し。何かいわれたような気がしますが覚えていません。そのあと相手の神田さんが来て「まあ適当に来いや」という趣旨のことを言われました。

2015年11月 8日 (日)

歩いてきた道 8

歩いてきた道(8)初めての巡業

青いスーツケースを二つ買って、テプラで自分のスーツケースである印を貼りました。あわただしく2週間分の旅支度を先輩方やマネージャーさんの指示のもとにこなしまして、いよいよ出発です。

SPZの巡業は毎月およそ2週間。その間に8試合を行います。リングネームは本名の今野(旧姓)花子」ではなく、「フローラ小川」と命名されました。吉田社長らの幹部の方々が、「小川ひかるの2代目レスラー」として売り出そうと考えていたようです。8試合のうちどこでデビュー戦が組まれているかというのは、当日まで言い渡さないと言うのがSPZの伝統です。(事前に言ってしまうと、本人が動揺・緊張してしまうリスクがあるかららしいです)

旅立つ前日、母親から電話がありました。父親からデビュー戦の日どりとか対戦相手とかは聞いていたみたいです。「最近どう?頑張ってる?」といつものように落ち着いた口調で話してきて、最後に「巡業に出るって事は、試合が組まれてるってことだから・・・ねえ、お願いだから事故らないで」と言われたことを覚えています。

SPZの4月シリーズは特別で、各地の大会場を回る移動距離の長いシリーズです。まず試合用のスーツケースを前日マネージャーさんに預けます。これは別便で試合会場の札幌へ運ばれます。そのあと旅立つ日、チャーターバスが2台、本社に横付けになって乗り込みます。指定された席は2号車の後ろの方でした。とはいってもこれは巡業バスとは別のチャーターバスで、羽田空港まで行くだけでした。そして羽田空港からは空路で札幌へ。飛行機に乗るのはこのときが初めてでした。

その日は札幌市郊外のホテルにチェックインしました。北海道といっても、若手選手は団体行動を乱すことは許されず、食事も一階のレストランで出されたものを食べました。
明日リングで戦うかもしれない、そう考えるとなかなか寝付けませんでした。

しかし、シリーズ緒戦の札幌では、私の試合カードは組まれていませんでした。後でわかったことでしたが、基本的に新人のデビューシリーズは、連戦は厳しいので1・2試合しかさせないよう配慮しているそうです。とはいえ新人選手ですのでやることはいくらでもあります。
昼過ぎに会場入りして、みっちり練習。道場にいるときほどハードにはやらないのですが、みっちり会場外周を走ったり、筋力トレーニングをこなしたあと、短い時間ですがリングに上がってスパーリングを佐久間さんと行いました。

「フローラさん。今日、あなた試合は無いから、雑用をやりなさい」
ひとことでいうとセコンドまわりの業務です。SPZ公式の青いジャージに着替えてまず入場する選手の誘導、ロープを開ける。選手の名前コール時に投げ込まれる紙テープの片付け。試合中はセコンドとして、コーナー下で試合を見守る。場外乱闘のときは観客に危険が及ばないよう鉄柵を押さえたり、臨機応変に動く、そして試合が終った後は負けた選手の介抱、退場時の誘導(ダメージが深い場合は肩を貸す、おんぶする)、控え室に戻ってからもダメージの深い選手の介抱など、けっこう細々とやることはいろいろあります。

佐久間さんから言われたのは「セコンドと言えども試合に参加しているという心づもりで、お客さんに見られていることを意識して、オドオドしないでプロレス会場のパーツになりなさい」と言われました。

2015年11月 7日 (土)

歩いてきた道 7

歩いてきた道(7)デビュー許可

練習生を実戦でデビューさせる。このへんは各団体さんでいろいろ決まりごとがあるみたいです。プロテストを受けさせたりとか、現場責任者の許可をもらったりとか。SPZでは基本的にデビューさせるさせないは社長の決裁事項です。とはいえ現場サイドのコーチや先輩選手から「まあ、何とかなるのでは?」という判断を社長が承認する仕組みです。

SPZは日本レスリングコミッション(プロレス団体を管理する業界団体)のコントロール下にありますので、リングの上で戦う選手には「ライセンス」が発行されます。デビューが近い選手は、健康診断やら身体測定やらを行い、申請書類をそろえて(手続き自体は会社が代行してくれるのですが)レスリングコミッションに申請を出す。そうすると形ばかりの?審査を経て、ライセンスが発行される流れです。ちなみに引退するときはライセンスは失効の手続きを取らされます。

かくいう私も「良く頑張ったね」とコーチやマネージャーさんに激励されて、なんとか日々の激しい練習についていって、だんだん意識が遠のいてトド扱いされるケースも少なくなってきました。少しは身体も出来てきたのでしょう。受け身さえ間違わなければ、息が詰まって動けなくなることはほぼ、なくなりました。

そうこうしているうちに4月に入り、ある日の夕方、戸塚駅近くのクリニックに連れて行かれ、健康診断、身体測定がありました。リングコスチュームの採寸を兼ねているらしく、あちこち計測されたのをいまでも良く覚えています。このとき、デビューが「現実のもの」としていやがおうにでも感じることになりました。

その1週間後、午後の練習に耐えていると、社長秘書の方から電話が入り「社長がお呼びです」とのことで、あわててジャージを羽織って本社に行くと応接室で、まず辞令を渡されました。「4月10日付けで巡業部 選手担当社員を命じます」と書かれていました。そのあと吉田(龍子)社長から「おめでとう」と言われ握手。そして本社スタッフの方からプロレスラーとしてリングに上がるために必要なライセンスが発行されたことが伝えられ、11桁のライセンス番号(もう忘れましたが)を頂きました。

そのあと「給与辞令」が渡され、1試合3万円ちょっとの出場給が記されていました。入門したときから月10万円の給与は支給されていましたが、ああこれで本当にデビューしちゃうんだな、という気持ちでした。
そのあとマネージャーさんから大きめの紙袋を手渡されました。中には白いリングシューズと、紺色のリングコスチュームが2組、あと試合用の靴下、下着。その夜自室で試着してみましたけど、シンプルなデザインの競泳用水着みたいでうわーって思いました。

そこからはもう嵐みたいでしたね。次の日から巡業だから旅支度だと言われて、先輩選手に連れられてスーツケースを買いに行きました。SPZが懇意にしているセレクトショップで、スーツケースを安く提供していただいている会社さんです。

「好きな色を選んで良い、2つ、買え」と先輩が言ってくれました。ひとつは巡業で私物を持ち歩くためのもの、もうひとつは控え室に持ち込む用でリングコスチューム、リングシューズなどを入れておくために2つ必要なんだと言われました。男子団体はショートタイツ一丁の選手は一つで済む選手も多いのですが、女子はリングコスチュームもかさばり、ガウンとかも凝るのでどうしても2つ必要になります。

2015年11月 6日 (金)

歩いてきた道 6

歩いてきた道 6 過酷な練習の日々

1ヶ月少々の間だったんですけど、いまになって思うと入門からデビューまでの間がいちばんしんどかった日々でした。
一日の練習スケジュールの続きですが、12時頃に全体練習が終ってランチ。みんなで大盛りごはんとチャンコ主体の食事ですが、ぐったりさせられたあとなんで食欲なんてあるわけがない(笑)。でも食べないと身体がいつまでたってもできないのでとにかく食えと先輩選手やコーチから厳命が下ります。規定量(ノルマ)というものがあるんですけど、それを食べ終わるまで解放してくれません。チャンコのスープをごはんにかけて流し込むとか工夫をこらしてなんとかクリア、という感じでした。

そのあと昼休憩が2時間くらい。そのあと午後の個別練習、まず先輩選手がリングを使ってスパーリングを行うので、入門前の選手は隅っこで筋力トレーニング。これも辛くて、何回か持ち上げると筋肉が利かなくなってバーベルを落っことしちゃう。コーチが「ダメだのう」などと言ってきます。辛くて泣きました。佐久間さんはよく道場裏に連れて行ってもらって「自分も最初はこうだった。誰でも通る道だから」と励まされました。

新人選手がリングを使った練習ができるのが、ベテラン選手の方々が引き揚げた夕方になってから。佐久間さん相手にスパーリングを繰り返しました。1年上なんですけど、しっかりとした体つきで、最初のうちは遊ばれている感じでした。

で、18時頃に練習が終って解放され、そのあと晩ごはん。このときはちゃんこの量は少なめで、肉とは魚とか、たんぱく質と野菜が多いメニュー。ちなみに食事は寮長さんが作ってくれるので大変おいしい(笑)。でも食欲が無いのでなかなか食べられない。

19時頃に食べ終わって、21時半(!)の消灯までの間はわずかな自由時間。でも何も出来ないくらい消耗しているので合宿所のロビーでグテーッとしているだけ。でも消灯までの間にお風呂に入らないといけないので、痛む身体を引きずりながら風呂場に・・・・さすがにこのときは脱走を真剣に考えました。ただ本当にしんどいところまで追い込まれていたせいか、脱走の計画を立てて実行するところまでは行きませんでした。

デビュー前までは財布、携帯を含め寮長さんに預けてますから、脱走となると身体ひとつで抜け出すしかない状況。私が引退したあとですが、1万円札を隠し持っていて脱走を図ったデビュー前の選手がいました。最寄の駅まで這うようにして歩いて、そこから電車を乗り継いで帰郷した選手とか。自分は実家が近いので脱走しようと思えば出来たのですが、母親がこの会社の一期生、父親がまだ取締役で健在とあっては両親の顔にドロを塗ることになりかねない。

そう考えて思いとどまりましたし、泣きながら実家に帰ったら「母さん止めたわよねぇ」と母親に言われることは想像が付きます。なので死ぬかもしれないけど頑張るしかない。そう自分に言い聞かせながら涙と汗の日々を送っていました。

それでも、SPZはもとはIT会社から独立してできた会社なので、メンタルケアを含めたトレーニングプログラムは出来ていたほうでしたので、「フツーの女の子」を「戦う乙女」に変貌させるのはお手の物というか、きちんとしたノウハウがありました。良くいえば面倒見が良いんです。悪く言えば監視体制が・・・・。デビュー前まではコーチがマンツーマンで指導していただき、叱咤激励と褒め言葉をうまく使い分けて心が折れるか折れないかのあたりをうまくコントロールしてくださる。なんてすばらしい会社なんでしょうか(笑)。

2015年11月 5日 (木)

歩いてきた道 5

歩いてきた道 5 合宿所入り

晴れて入門テストに合格したので、戸塚本社ビルの近くにある合宿所に入寮しなければならなくなりました。通える距離なんですが、特別扱いが出来るはずもないので道場に閉じ込めてみっちりプロレスの練習漬けにさせるのが会社の方針でした。

3月頭、少しの身の回りの品だけバッグにつめて、合宿所に入りました。そのときは同期の新人がいなかったので、2階の個室が与えられました。とはいえ部屋にはテレビも何も無く、ベッドとエアコンがあるだけでした。合宿所に荷物を置いて、練習に参加しましたが、顔見知りの先輩選手に言われました。
「もうゲスト扱いはしないから、そのつもりでね」

その言葉の意味は30分もしないうちにわかりました。まず筋力トレーニング、そのあと受け身の練習なんですけど。はっきりいって痛い。投げられたときの衝撃が凄い。いままではゲストとして遊んでもらってたんだな、というのを文字通り痛感しました。

ボディスラムの受け身50回、先輩選手やコーチに投げられるんですけど、あごを引いて背中できっちり受け身を取るんですけど痛くて、最初のうちは投げられて息ができないくらい痛い。けっきょく1時間くらいで動けなくなってダウン。道場の隅で横になって転がって回復を待つ。SPZの普通の新人が誰でも通る道です(笑)。

1つ上の先輩に佐久間(理沙子)さんっていう選手がいていろいろ教えてもらったんですが、「投げられて動けなくなるのは体が出来ていないから。筋肉と少しの脂肪で鎧をまとうしかない。ロールプレイングゲームでもてつのよろいを装備するとダメージの量が減るでしょう。あれと同じ」とわかりやすく説明してもらいました。いまのSPZでも、鳥海選手や藤田選手なんかは凄い背中をしていますが、身体を作らないとまずプロレスをさせてもらえないのです。

ただ、柔道上がりや空手をかじってきた入門選手と違うのは、こっちは子供の頃からプロレスを見ながら育ってきたというアドバンテージはありましたから、先輩選手のやっているのを真似することは得意でした。受け身もなんとか形はサマになって、「飲み込みは早いね」と言っていただきました。あとは身体を作るためにひたすら筋力トレーニングをして、練習後はごはんを食べまくりました(笑)。

一日の練習スケジュールですが、朝5時半起き、そして6時半から若手選手中心の朝練習。これは道場近くの川まで5キロ前後の集団ランニング、そのあと道場に戻って筋力トレーニング、受け身動作の練習、このへんで朝8時になって、そのころに古参の先輩選手がはいってきて合同練習。このあたりからハードになってきます。投げられる練習、蹴りやチョップの打撃を食らう練習。とにかくSPZはやられることから教わります。「もしものことがあって大怪我して後遺症を負うことになったら会社の体面が傷つくではないですか」とコーチが口すっぱく言っていましたね。

投げられる練習地獄が終ると、スパーリング地獄。プロレス観戦をされた方はわかると思うんですが、試合開始後すぐは、グラウンドの攻防があってそのあと立ち技の攻防があります。だからまずグラウンドレスリングは覚えてもらわないとお話にならないわけです。「取っ組み合って相手を倒して肩をマットに付かせろ」と言われて組み合うんですがもうされるがまま。腕関節をとられたりして肩がちぎれるかと思いました。

2015年11月 4日 (水)

歩いてきた道 4

歩いてきた道4 母親を説得

とにかく母親を説得しないとレスラーへの道が開けない。そう考えたので(1)論理的に説得する(2)父親を味方にする(3)既成事実を作る、という作戦を考えました。

(1)がいちばん難しかったのですが、レスラーデビューした選手が試合中・練習中に亡くなられたケースは男子を含めて、100年以上のプロレスリングの歴史で数人しかいないので、レスラー全体を分母にした最悪のことが起こる確率は1パーセントに満たないのではないかということを調べて、またレスラーで10年頑張ればあとの人生遊んで暮らせるだけの大金を稼げるということも調べて(これはギムレット美月さんの自伝に書いてありました)、父親には事前に「一度きりの人生、太く短くぱぁっとやりたい」と懇願して、母親との三者会談を要請して、両親の前でプレゼンしました。(笑)

 少し危ないかもしれないけど稼げる定職についてたほうが、父さんが早くリタイアできて安心と主張して、母親を論破しました。既成事実の方は毎週SPZプロレス中継を見たり、お小遣いで週刊ハッスルとかのプロレス雑誌を買ったりとかの示威活動?を続けました。もちろん道場にも通い続けて、そのころから当時の社長(吉田龍子さん)に目をつけられていました。で、現役選手の神田さんには「中学卒業したら、新人テストを受けなさい」と言われました。

当時のSPZは「新人テスト」は2通りあって、ひとつは一般公募で100人以上を体育館に集めてふるいにかけるコースと、スカウトさんが支援者さんやレスリングスクールの有力者のつてをたどってめぼしい選手を勧誘して、形ばかりのテストを受けさせて入門させるコースとがあって、私は後者でした。

あれは確か中学卒業前の頃だったと思うんですが、いつものように戸塚の道場でマシン相手に汗を流していると、吉田社長に呼ばれて、「まあまあ」と本社ビルの応接室に通されて、「一応確認するけど、中学卒業したらうちに入るんだよね」と念を押されました。父親を通じてSPZ入門の希望を出しておいたのですが、社長から改めて聞かれて、気が引き締まりました。そのときに「あなたの適性を見ないといけないから、2月下旬(何日かは忘れました)に新人テストを受けるように」という指示がありました。

今になって思えばテストは形だけで、私の入門許可は父と吉田社長との間で話が出来ていたみたいです。そんな事情は当時の自分は知らなかったので(笑)テストに落ちたらどうしようかなって考えたりもしました。受け身はともかく、重たいバーベルを持ち上げるのは苦手でした。八島(静香)さんなんかは軽々と持ち上げていまして、よくそんなことやれるなあって思っていました。

いよいよテスト当日、吉田社長は所用で立ち会えなくて、たしかコーチ数人の前で、腕立て、腹筋、スクワットなどの課題があり、なんとかクリアしました。そのあとリングに上がって受け身300回。これもなんとかクリア。合否の結果は1週間以内に通知しますと言われたんですけど、次の日には父親が合格通知を持ってきました。

母親は私がテストに落ちればいいと思っていたようで、あっさり通ってしまったのを聞いて、また出前の握り寿司を取り落としました。
しかしそのあと母親はお茶を飲んだあと、「死ぬかも知れないくらいハードだから、覚悟を持ってやりなさい。でも親として、いつあなたが脱走してもいいように部屋はそのままにしておくから」と言ってくれました。

2015年11月 3日 (火)

歩いてきた道 3

歩いてきた道(3)SPZとの出会い

女子プロレスの世界では老舗の新日本女子プロレスさんと、歴史は浅いけど世の中へのインパクトでは新女さんをしのぐ(と、評価いただいている)SPZが2大勢力を築いていまして、私の父親が雇われ創業社長として設立したのがSPZだったようです。母親はそのSPZで最初に採用された1期生で、その縁で引退する前後から付き合いだして結婚した、ということらしいです。

ということは自分は創業社長の娘、そう見られていまして、10歳になるかならないかの頃にはSPZの道場によく顔を出していました。父親が「家においておくのも」と考えたのかもしれませんけど、もともと体を動かすのは好きでした。そのときは道場にハリケーン神田さんとか八島静香さんとかがいて、よく遊んでもらいました。リングに上がって受身の練習とか、チェストプレスとかサンドバッグとか、もっともこっちの楽しみは練習後のごはんで、塩分を補給するためなのか、おかずにキムチちゃんことかがひんぱんに出てきて、母親のつくり置きのごはんと違って実に美味しかった(笑)。で、よく食べると神田さんとかが「この子、見込みあるよ」と言ってきまして。なんでもレスラーは食欲が強くないと強くならないらしいので。

さすがに母親はあせりまして、仕事が休みの日、クルマに乗せられまして、二人で山奥へドライブにつれてかれまして、サシで説得工作されました(笑)。自分がした苦労を娘に味わわせたくないという思いがあったんでしょうね。母親はあまりクルマを運転しないのですが、このときは中央道の河口湖あたりまでつれてかれまして、「SPZの道場に通ったりしているけど、本当に将来プロレスラーになるつもりなの?」とすごくあせった顔で言われました。

母親はまじめな人でしたので、こういうときはちゃんと答えないといけないなと感じたので、「そのつもり」と答えたら、大声で言われました。
「バカ、死ぬわよ。」
母親に怒鳴られたのはあとにも先にもこのときだけでした。そのあと母親の経験者は語るシリーズがはじまって、車の中に監禁されて1時間近く説教されました。

わかっているとは思うけど、試合中に頭から落ちるシーンがたまにあって、そういうときは受け身をうまく取らないと死ぬかもしれない。で、その受け身は練習を重ねることで覚えてゆくけど、間違いが起こる可能性はゼロにはならない。現に自分も目の前がぼうっとかすんで、このまま死ぬんじゃないかという思いを何度かした。そういう危険な職場に花子を進ませるわけにはいけない。という論理構成で、監査法人でクライアントの不正を指摘するみたいに明快に言ってくるんですね。

 さすがに母親の意向を無視してまでやりたいとは言いづらかったので、そのときは「わかった、考える」と言って場を収めました。帰りに谷村のパーキングでソフトクリームを買ってもらいましたが(笑)どうしてくれようかとその時は思いました。
でも道場に通うのは止めませんでした。もう社員スタッフの方とかにも顔を覚えられて、「また来たの?」って感じでした。中学に上がってからはいちおう陸上部に籍は置いていたのですが、週に2~3回はSPZの道場に通って、練習のあとおいしい晩ごはんを食べていました。

2015年11月 2日 (月)

歩いてきた道 2

(歩いてきた道2 母親の正体)初めてのプロレス観戦

私が物心ついたときには母(小川ひかる)はもうスーツとか着ていて、監査法人に勤めていました。なんでも公認会計士の資格を持っていて、あちこちの会社の決算資料のチェックをするとかでけっこう外に出ていました。とはいえ話をしなかったわけではなくて、休みの時にはけっこう遊びに連れて行ってもらいました。

教育方針は自由放任で行こう、でもインプットは適切にという考えだったようで、美術館とか博物館とかコンサートとか、いろんなところへ連れて行ってもらいました。基本的には優しい母親でしたね。

ある日、父親の書斎を捜索していると、ロッカーの奥にDVDが隠してあって、アルファベットで「HYPER BATTLE」とか書いてあったんですね。もうその頃は横文字も読めるようになっていましたので(笑)アクションものの映画なのかなと思って、DVDプレーヤーに突っ込んで再生してみたら、アクションはアクションでもプロレスだったんですね。しかも戦っているのが若い頃の母親でした。でもぜんぜん格好良くない。やられているシーンが8割くらいだったかしら。

 負けブックとかセル(相手の技を受ける)とか、そういったことは当時は理解していませんでしたから、うめき声を上げながらながらやられている母親の映像を見て、もしかして母さんは弱いレスラーだったのかな、と子供心に感じました。

で、次に母が休みのときに聞いてみました。そうしたら母親は動揺して動揺して。そのとき母の体調が良くなくて、お寿司の出前をとっていて2人で食べてたんですけど、つまんでいたアジかなんかの握りを醤油皿にべしゃって落としちゃって。「何で知ったの?」と聞かれたから正直に「父さんの書斎をあさったら出てきた」と答えました。そのときはちょっとは母から叱られましたけど、あれは見られる場所に置いといたほうが悪いと思っています(笑)

それでプロレスというものに興味を持ちました。小学生低学年の頃だったと思うんですけど、父親に「プロレス観戦につれてって」とお願いしました。父はもう親ばかでしたから、ちゃんと役員特権でリングサイドのいい席を手配してくれたんです。初めて見に行ったのは横浜スペシャルホールの興行で、まあ鍛えこまれたお姉さんたちが殴りあったり取っ組み合ったりしている。近くで見ると「すごく痛そうだな」と感じましたね。

 でも、母親の試合のDVDと違うのは、とにかく母親はやられるシーンが多い。たいていぶざまに殴られ、蹴られ、投げられて最後はワン、ツー、スリーが入って負けちゃう。負けたあと母親がリングの上にトドみたいになって転がってるんですよ。あとからわかったことですが、負けたときは勝者が引き揚げるまでは倒れているのが礼儀で、母親はその通りにしただけらしいのですが。父親にも「母さんは弱いレスラーだったんですか」と聞いてみました。そしたら「そうだねえ。それがわかるようになるにはもうちょっと大きくならないとねえ」と苦笑されました。

 プロレスでは、勝者と同じ数だけ敗者がいる。たまたま母親は後者の役どころを引き受けるのが多かった。いまではそう理解していますが、母さんをこんな目に合わせる人たちに仕返ししたいと思ったのが、レスラーを志したきっかけといえばきっかけでした。
それ以来、意識してSPZのプロレス中継は、オンエアが夜遅くだったんですけど必ず見るようにしました。母親はあわてていたようですが、父親は「まあ好きなようにさせとけ」って感じでしたね。憧れても、レスラーに実際になれる確率はきわめて低いので。

2015年11月 1日 (日)

歩いてきた道1

時に西暦、2097年、

日刊紙の「グローバル経済新聞」の最終面の名物コラム、自伝コーナーの連載に元SPZ王者、フローラ小川が起用された。ふだんは財界人や政治家が起用されるのだが、日本有数のプロレス団体の元スター選手がお堅い経済新聞に連載を持つのは異例のことで、各方面から話題になった。

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(歩いてきた道1 生い立ち)共働きの両親の家に生まれて

 初めての方、初めまして。いまはスーパースターズ・プロレスリング・ゼットというプロレス興行会社で相談役をやらせていただいている西花子と申します。このたび、グローバル経済新聞様から「これまで歩いてきた道」の執筆を依頼されまして、迷いましたが、最近は暇をもてあましているのでお受けすることにしました。ただもう現役レスラーとして戦っていた日々は遠い昔の話ですので、記憶違いなどが多々あるかもしれませんがその辺はご容赦ください。

 一般的なアスリートさんの自伝を読むと、たいてい生い立ちから書かれるケースがほとんどですので私もそれに倣います。物心付いたときは、川崎市内のマンションにひとりで放って置かれていました。なにしろ父はプロレス興行会社の創業者で、社長の座こそ後進に譲っていたものの取締役として勤務していて、母も監査法人へ勤めに出ていて、私がお留守番というパターンでしたね。でも冷蔵庫を開ければ何かしら食べるものが入ってましたから、それをレンジで温めて食べていました。でもまあ居間には本やら音楽CDやらがいっぱいありましたから、いい勉強になったと思います。

母がけっこう策士でして、手の届くところに図鑑とか伝記の本とか、読みやすくてためになる本を置いていたんですよ。 あとはけっこう旅行の本とかが多くてですね、この辺は父の趣味だったんでしょうね。見やすい旅行ガイドはけっこう見返しました。料理の写真とかがあって、どうしたらそういう料理が食べられるのか、子供心でも憧れましたね。いまでもカニとか伊勢海老とかを食べに行くときはそわそわしてしまうんですが、そういった原体験があるのだと思います。

でもまったく外に出られない幽閉生活かといわれると、そうでもなくて、父は巡業さえなければ週に一回は休みを取っていましたから、どこかに連れて行ってもらいました。思い出に残っているのは黒部ダム。なんていうか、巨大な要塞みたいな感じがして、ワクワクしたのを覚えています。父の方が大枚をはたいて遠方へ連れて行ってくれたんですが、母親は仕事で疲れていたのか、近場の映画館や遊園地とか、お出かけって感じでした。

 父と母は年齢が20歳くらい離れていて、結婚したときは驚かれたらしいんですけど、お互い仕事人間らしく好き勝手やってましたね。仲は悪くは無いんですけど、お互い「いい大人なんだから」ということで休みを合わせようとすらしない。とはいえ3人で食事に行く機会はたまにありました。たいてい近くのショッピングセンターの食堂でしたけど。でも3人一緒だとああいうところで食べるハンバーグやビーフシチューが妙においしく感じるんですね。

レスラー引退後に料理人になったんですけど、繊細な和食より家庭料理の方が作るのに気合いがはいったのはそういった影響があったのかもしれません。
 居間の本をたいてい読みつくしてしまったので、父親の書斎に進出しました。鍵はかかっていなかったので(笑)居間はソファーがあって転がりながら遊んでいたんですけど、父の部屋だけ畳敷きの和室で、本とかDVDとかが並んでましたね。

意外に父の書斎の本棚には漫画本やライトノベルが多くて、そういうので息抜きをしてたんだなと感じました。手の届くところの漫画本は読んでしまって、いろいろ父の書斎を家宅捜索していって、帰ってきた父に苦笑いされました。「本当にやばいのは結婚前に捨てちゃったからなあ」などと言ってました。で、そうこうしているうちに気づいちゃったんですね。母親がかつて人気レスラーだったことに。

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