歩いてきた道1
時に西暦、2097年、
日刊紙の「グローバル経済新聞」の最終面の名物コラム、自伝コーナーの連載に元SPZ王者、フローラ小川が起用された。ふだんは財界人や政治家が起用されるのだが、日本有数のプロレス団体の元スター選手がお堅い経済新聞に連載を持つのは異例のことで、各方面から話題になった。
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(歩いてきた道1 生い立ち)共働きの両親の家に生まれて
初めての方、初めまして。いまはスーパースターズ・プロレスリング・ゼットというプロレス興行会社で相談役をやらせていただいている西花子と申します。このたび、グローバル経済新聞様から「これまで歩いてきた道」の執筆を依頼されまして、迷いましたが、最近は暇をもてあましているのでお受けすることにしました。ただもう現役レスラーとして戦っていた日々は遠い昔の話ですので、記憶違いなどが多々あるかもしれませんがその辺はご容赦ください。
一般的なアスリートさんの自伝を読むと、たいてい生い立ちから書かれるケースがほとんどですので私もそれに倣います。物心付いたときは、川崎市内のマンションにひとりで放って置かれていました。なにしろ父はプロレス興行会社の創業者で、社長の座こそ後進に譲っていたものの取締役として勤務していて、母も監査法人へ勤めに出ていて、私がお留守番というパターンでしたね。でも冷蔵庫を開ければ何かしら食べるものが入ってましたから、それをレンジで温めて食べていました。でもまあ居間には本やら音楽CDやらがいっぱいありましたから、いい勉強になったと思います。
母がけっこう策士でして、手の届くところに図鑑とか伝記の本とか、読みやすくてためになる本を置いていたんですよ。 あとはけっこう旅行の本とかが多くてですね、この辺は父の趣味だったんでしょうね。見やすい旅行ガイドはけっこう見返しました。料理の写真とかがあって、どうしたらそういう料理が食べられるのか、子供心でも憧れましたね。いまでもカニとか伊勢海老とかを食べに行くときはそわそわしてしまうんですが、そういった原体験があるのだと思います。
でもまったく外に出られない幽閉生活かといわれると、そうでもなくて、父は巡業さえなければ週に一回は休みを取っていましたから、どこかに連れて行ってもらいました。思い出に残っているのは黒部ダム。なんていうか、巨大な要塞みたいな感じがして、ワクワクしたのを覚えています。父の方が大枚をはたいて遠方へ連れて行ってくれたんですが、母親は仕事で疲れていたのか、近場の映画館や遊園地とか、お出かけって感じでした。
父と母は年齢が20歳くらい離れていて、結婚したときは驚かれたらしいんですけど、お互い仕事人間らしく好き勝手やってましたね。仲は悪くは無いんですけど、お互い「いい大人なんだから」ということで休みを合わせようとすらしない。とはいえ3人で食事に行く機会はたまにありました。たいてい近くのショッピングセンターの食堂でしたけど。でも3人一緒だとああいうところで食べるハンバーグやビーフシチューが妙においしく感じるんですね。
レスラー引退後に料理人になったんですけど、繊細な和食より家庭料理の方が作るのに気合いがはいったのはそういった影響があったのかもしれません。
居間の本をたいてい読みつくしてしまったので、父親の書斎に進出しました。鍵はかかっていなかったので(笑)居間はソファーがあって転がりながら遊んでいたんですけど、父の部屋だけ畳敷きの和室で、本とかDVDとかが並んでましたね。
意外に父の書斎の本棚には漫画本やライトノベルが多くて、そういうので息抜きをしてたんだなと感じました。手の届くところの漫画本は読んでしまって、いろいろ父の書斎を家宅捜索していって、帰ってきた父に苦笑いされました。「本当にやばいのは結婚前に捨てちゃったからなあ」などと言ってました。で、そうこうしているうちに気づいちゃったんですね。母親がかつて人気レスラーだったことに。
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